http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C
天地正気有り 雑然として 流形を賦く
下りては則ち河嶽となり 上りては則ち 日星となる
人においては 浩然と曰い 沛乎として 蒼冥に塞つ
皇路 清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く
時窮すれば節乃ち見れ 一一 丹青に垂る
斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆・・・・
■私の好みも交えウィキペディア版を改訳
天地には『気』があり、その形はさまざまだ。。
地上では大河や山となり、天の太陽や星ともなる。
みよ、それは人の世にも満ちている。ここにもそこにも、どこにでも満ちている。
政治の道が正しいならば、それはすばらしい政府の形になる。、
だが、乱れた時代なら、一人の個人の『節』となる。
そして歴史に刻まれる。
斉のにあっては紙無き時代、太史が記録する竹の板。
晋にあっては董狐のもつ筆に宿った・・・。
最後の部分は、べつのエピソードの例示だからこれだけじゃ分かりませんよね。
http://www.c-able.ne.jp/~s-town/seiki.htm
斉の宰相崔杼が、主君霊公を殺したとき、事実を隠蔽しようとした。
しかし、職務に忠実な史官は「崔杼、其の君を弑す」と記録した。
怒った崔杼はこの史官を殺したが、そのふたりの弟も同じように書き殺され
4人目の弟がついにそれを記録に残したもの。
クーデターをした宰相が、この4人目の処刑をあきらめた時は、既に5人目が竹簡を持ってこの都に上る途中だったそうな(笑)。
この話は陳舜臣が、1989年の天安門事件直後に文芸春秋に寄稿した文章で知りました。
その後、陳を心の師匠とあおぐ田中芳樹がどこかで引用していたはずだから、けっこう若い人にも有名かもしれないね(田中氏好みのあ逸話、という気はする(笑))