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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

"柔道伝承"石井vs吉田!だがその前に"早すぎた赤鬼"を知れ(ルスカ伝、柳澤健)。

昨日はまた、途中で寝入ってしまい公武堂TVを途中離脱してしまいました。失礼しました


石井慧vs吉田秀彦
この論評も感想も、以下の引用ですべて間に合うのでそうさせてもらう。
http://d.hatena.ne.jp/lutalivre/20090914#1252924467

吉田vs石井というカードに関しては、誰もが妥当と思うだろう(菊田以外)。この期を逃したら、吉田の引退試合くらいでしか対戦が実現しそうにないし、衰えている吉田とデビュー戦の石井で釣り合いも取れている。サプライズはないが、これが一番では。


http://omasuki.blog122.fc2.com/blog-entry-614.html

僕は「石井 vs 吉田」がデビュー戦に最適だと言いたい。(略)銅メダリストに負けるなら、柔道に戻った方がマシだと言われるだろう。その点吉田になら、負けても当たり前、ちょっとでも健闘すれば、石井への期待度はますます上がる。よしんば吉田に勝ちでもすれば、一夜にしてヒーローだ。石井デビューともなれば、ワイドショーでも放送するだろうから、負けることを前提のリスクコントロールをした方が良い。「弱い相手から徐々に」という主張もあるが、実はその主張に沿ったとしても、やっぱり吉田でいいんじゃないかと思う。


さて、大晦日だかお正月かにかのやうな大一番があり、来週は泉浩もデビューする。
加納治五郎先生も泉下で微笑んでいらっしゃるだろう。

道家が、それをベースに打撃や、下から極める寝技も磨き、総合格闘家となって真剣勝負の中で、実力一本で富と名誉を得る。
いい時代になったものだ。
そして、そんな時代に、「この男」が現役であったら・・・・


私は一度、柳澤健氏が書いた「1976年のアントニオ猪木」を、相当の字数を使って紹介させてもらったり、ある縁で著者にメール・インタビューさせてもらったりした。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070517#p1
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090224#p2
だけど同書のうち、ウイリアム・ルスカとアントン・ヘーシンクをめぐる章は「あまりにも興味深いので独立した紹介文を書かせてもらう」としていたくせに、気合というかどう攻め込んでいくかの戦術がまとまらずのびのびとなってしまっていた。


石井−吉田が決まったこの機会こそ「柔道と総合格闘技」を考えるチャンス。もう逡巡するのはやめて、とにかくやってみよう。


ちなみに、同書のルスカ伝に関してはこちらでも先行して紹介されている。
http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20090315
あと、同書のメインである猪木−アリ戦に異説を唱える立場から、こういう電子書籍も出た。
http://miruhon.net/index.php?main_page=product_info&products_id=348


さて「1976年・・・」はアントニオ猪木が、極めて特殊な事情から1976年に「真剣勝負」を戦い(プロレスだが、どっちが勝つかのいわゆる「ブック」がまとまらず結果的に真剣になったものを含む)、それが現在のMMAの礎に(結果的に)なったというコンセプトで構成されている・・・のだが、逆に猪木vsルスカ戦に関しては「異種格闘技戦と銘打たれているがブックはきちんと決まっていた」ということを描きつつ、それでも1976年の猪木と、その後の格闘技界に与えた影響が計り知れないということで一章が割かれているという奇妙な部分だ。


柳澤は言う。「猪木とルスカは、似たもの同士だった」
どこが?
それは、猪木がジャイアント馬場を超えようとあがいたように、ルスカは同じオランダの柔道英雄、アントン・ヘーシンクを超えようとあがいていたからだ。ヘーシンクがオランダで得た名誉と地位は、実は日本での想像を上回るものだった。・・・なぜかというとオランダはは太平洋戦争で日本にいいところがなく、捕虜の扱いも含めうらみ骨髄だったから(笑)。
しかし、「日本の伝統・柔道でオランダの英雄が勝ったのは痛快だ!」が理由で柔道熱が高まったという。文化の伝播とは一筋縄ではいかないものだ。


ただ、そんな中で「武士道」が以前書いた”新撰組の法則”というか、あっちの一部ではなんかよりピュアになってしまい「武道は武士道を学ぶもの。その修行で金銭を授受するなど不純だ」という団体(NAJA)が力を持ち「いや、さすがに道場経営も必要だし」という一派(NJJB)と対立する。ちなみに”武士道派”の重鎮が空手バカ一代で有名なジョン・ブルミン!!(ジョン・ブルーミング)

このへんは競技と経済と法哲学を考える点でもすごく面白いのだが、すでに紹介文の最初の構想から大幅に逸脱しているので泣く泣く割愛。


そしてルスカは、ブルミンの愛弟子だった。「技は力の内にあり」との大山倍達の教えゆえ?か、ブルミンは当時としては珍しくウエイトトレーニングを重視し、その肉体に柔道を注ぎ込むという方式を取り、ルスカはベンチプレスできる重量は3.5倍近くになった。


だが、NAJAはオリンピックや世界選手権の予選開催・選考権限という肝心な部分で、NJJBに後れを取っていた。そもそもブルミン自体が、実力的には世界選手権に十分出られる…というか「彼が出られないなんて極めて不合理だ」と新聞記事になるほどだったのに、結局だめだったのだ。その弟子、ルスカにおいておや。
東京五輪予選・全勝のルスカだったが、すでに選手出場が決まっているヘーシンクの隣室での怒鳴り声を、ブルミンは確かに聞いたという。

「ルスカ? あんな、ブルーミングのところにいるヒモ野郎(Fucking Pimp)を、オリンピックに連れて行けるものか!」

弟子を侮辱されたブルミンだったが、この昔気質の男は沈黙した。
なぜか。

「ヘーシンクがルスカを”ヒモ野郎”と呼んだのは、単なる誹謗中傷ではなかった。ルスカと一緒に住んでいた女性は、実際に娼婦だったんだ」


これも、本当は法哲学的、論理的に考えればですよ、

オランダは売春も一部合法化された国であり、セックスワーカーを不必要に見下す風潮こそサベツである、とか
スポーツで大成を目指し練習に集中する男性を、別の収入がある女性が生活面で支えるってのは別に悪くないだろうとか、
男が家計を支え、女は家庭というのはステレオタイプ男女共同参画社会ではその逆もありえるのですとか、
そもそも競技論から言えば、私生活がどーであろうと予選で勝ったもんが五輪出場権を得られてあたり前だが・・・・


とか、いろんなツッコミがヘーシンクのみならず、ルスカやブルミンにもできよう。
だが、実際問題として当時の柔道界では、本人も含めてそういう論理が通じてしまう。今でも、本音の部分ではどうか。正直、読んだ時私もショッキングな事実として受け止めたことは告白しておかねばならない。



それにやっぱり環境も悪かった。だって武士道師匠、ブルミンがそうやって乱れつつあった弟子を見かねて「ヒモ暮らしはいかん、ちゃんと働け」といって紹介したのがバーのバウンサーだもん(笑)。いや実戦で鍛えられるだろうけどさ。


しかし、それで生活も安定し、自分の恋人を娼館から辞めさせたルスカだが、東京五輪出場を逃した彼に悪魔がささやいた。−−−五輪選考漏れの気晴らしに、ルスカやその恋人トーレス、弟子たちをプールに招いたブルミンは、トーレスが次の日から再び娼婦の仕事を行うと知った。
なぜ?
実はルスカは、さらに強くなりたいという執念で、東京へわたっての柔道修行を決意する。そのための大金が必要だったのだ。

「日本へ行くというのは本当か?」
「ええ、そうです。(略)ヤツ(※ヘーシンク)は俺が怖いんだ。だから俺は日本へ行って、この目でオリンピックを見て、日本で修行して…(略)」
「そんなことはどうでもいい。トーレスがまた飾り窓に立つと言っていたが、本当か?」
「・・・はい」
「お前にはもう二度と会わない!道場へも二度と来るな!」

わたしは、このくだりで、宇宙へ、月へロケットを飛ばすためには師オーベルトをも裏切り、ナチスドイツの下で弾道ミサイル「V2」を作り上げたフォン・ブラウンを思い出した(栄光なき天才たち)。


この後は駆け足で記そう。
ブルミンに破門されたルスカだが、恋人を犠牲にしてやはり東京に渡り柔道修行に明け暮れ、また意外なことに、強くなるためには誘いを受けたヘーシンクの道場にも入った。のちにクリス・ドールマンもその道場に誘ったという。(ドールマンはその後、ヘーシンクと不仲になった。今でも柔道界の重鎮であるヘーシンクの、意外な一面も紹介されている)
オランダ帰国後は別の女性のヒモとなり、そこに経済的に依存して柔道の練習を続けた。
そしてミュンヘン五輪直前には、東京五輪の中量級優勝者・岡野功に師事して技を磨き、見事優勝。


だが、ヘーシンクのような社会的な栄光が、富が、一向に得られない。ヘーシンクらが影でささやいた「売春婦のヒモ」というレッテルは、オランダでも彼の予想以上の傷となっていたのだ。

ジム経営は成功せず、妻は脳梗塞で倒れる。
金の必要に迫られ、また小遣い稼ぎ的に全日本プロレスで適当にプロレスをしているヘーシンクを横目でみたルスカは、くしくもその全日本プロレスのライバル企業の総帥で、モハメド・アリと闘うなどというホラを吹いている奇妙な東洋人との対戦を決める。


もちろん、負け役として。
試合前、岡野功に挨拶に行ったルスカだったが、愛弟子が金のために「柔道を売る」ことを知っていた岡野に、何も結局は言い出せなかったという。

今に語り継がれる「プロレス」を作り上げたルスカvsアントニオ猪木。しかし、その後のルスカは鳴かず飛ばず。レスラー仲間は「プロレスを本気でやる気が無かった」「相手に怪我をさせまくった」と口をそろえる。
その後はイワン・ゴメスとブラジルで(結果的な)セメントを戦ったり、小さなカフェのマスターに収まったり、ふとしたきっかけで「前橋市柔道大会」(全日本大会でも治五郎杯でもなく!)に「柔道家として」招待されたことに大喜びしたり(招待してくれた医師には、ミュンヘン五輪優勝時の柔道着を贈ったという)。
1998年にはプロレスラーとしてではあるが、新日本プロレスアントニオ猪木引退興行のゲストにもなった。


だが、2001年、ルスカは脳梗塞をわずらった。2年後に生涯の城だった小さなカフェも売却、いまは療養生活を送るのみだという。


柔道の母国では今、彼と同じ金色のメダルを手に入れた2人が、億の金を得た上で、どちらが負け役とも最初に決めることなく、ルールは異なれど柔道と同じく「勝負」をリングの上で競う。


そのことは、ミュンヘン五輪柔道重量級・無差別級二階級制覇の「オランダの赤鬼」の耳に届いているだろうか。届いていないだろうか。

それはどちらでもいい。
だが我々は、−−−−彼のことを忘れまい。

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)


(了)