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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

ナチスドイツのパリ入場に参加した日本人記者の話(「記者風伝」)

記者風伝

記者風伝

という本を読んだ。作者の河谷史夫朝日新聞の元「素粒子」筆者、”死神騒動”の当事者といったほうがピンと来るかもしれない。
しかし私はそれ以上に書評委員としての彼のファンで、書評集「読んだふり」も面白かった。

今回の本は、「名記者」と言われる人たちを短く紹介したものだ。
いろいろと面白い部分は多数あるのだが、守山義雄という人を紹介したい。

河谷氏は
「新聞紙(しんぶんし) 一日経てば 新聞紙(しんぶんがみ)」
という言葉を紹介し、新聞記事というものが日を置き、時を経れば意味の無くなるものだとする。
その例外が、守山の記事だった。
かれは、第二次世界大戦においてドイツ軍が電撃戦によってフランスをまたたく間に撃破、パリに進撃する。
守山はそこに従軍し、こういう文章を書いた


北仏の平原を横切り丘陵を越えてドイツ兵站部隊の長い隊列が南へ南へと前進していた。
(略)
八十パーセント迄機械化したドイツの軍隊には珍しくも之は馬に牽かせた輜重の一隊だった。『パリ迄二十六キロ』道端の標識にははつきりそう読まれたが、御者台の兵士達は何の感興も湧かぬ面持で連日の強行軍の疲れから馬の手綱を握った儘うつらうつらと揺られてゐた。道はサン・ドニのだらだら坂を上り切って小高い丘の上に出た。その時突然一人の兵士がアツと叫んで前方を指さした儘声を呑んで了(しま)つた。
あのエツフエル塔が指呼の間に悠然と聳えてゐるではないか・・・・(後略)


守山は「兵の涙に『欧州の宿命』」「規律の中のドイツ軍に『強者の美しさ』」を見たりして、壮麗な戦争文学だと呼ばれた。徳富蘇峰を記念する蘇峰賞が送られた。


そして、すごいことには戦後、「ヒットラ来り去る」という記事を連載。

「伯林と東京と敗れたる二つの都市の目撃者となった自分にいま『自由なペン』が与えられた。ああ自由なペン!新聞記者になっていく年そのことを夢にみたことか」


ただ、この文章は反発も呼んだ。
「ドイツが負けたからおまえはそういうことをいうのだろう」「それをなぜベルリンから堂々と通信しなかったのか」「ナチスドイツの完璧な組織を謳歌し、ドイツ必勝をわれわれに説いたのはつい昨日までのことだったではないか」「新聞記者は筆先の技巧ひとつで白を黒と言いくるめる」「えんぴつ女郎」・・・


「そんな批判はやっかみ半分だ」「筆は筆で埋め合わせすればいい」という弁護論もあったらしいが、当人はかなり気にやんでいたとか。


だがなんにせよ、その後も彼はサンフランシスコ講和会議や横井庄一元軍曹の発見などを記事にしていく。
戦時中にパリ入場を、
終戦直後に「ヒットラー去る」を、
独立回復時にサンフランシスコ講和条約締結を
すべて名文で描いた記者。 そんな記者に、歴史はどのような判決を下すのか。