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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

”スモールタニ”谷幸雄がハッケンシュミットに挑戦していた。

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/65-cf0d.html
のエントリは、エストニアという小国から当時の世界の中心・ロンドンに身一つで渡り、現地の王者が築いた地位をそのままぶん取って栄光と富を作り上げた男が、逆に未知の存在に挑戦されそのリスクを恐れるという、いつの時代にも変わらぬ戦士・武芸者の光景を感じられる。
谷がハッケンシュミットに挑戦、ということ自体は同ブログで以前紹介されていたが、細かい情景を知るとより面白い。

リンク先のジョージ・ハッケンシュミットの写真を見るだけでも、「ロシアのライオン」の筋骨りゅうりゅう仕上げをごろうじろ、な肉体には説得力があるが、今で言えばランバー・ソムデートよりもさらに小さい?体格の谷がそれに挑戦とはなんとも信じがたい、ロマンというものだ。

…タニは1903年11月、初めてハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけた(柔道か柔術か16)。以後タニはハッケンシュミットに対して「柔術ルールで私と戦ってみろ」という挑発を続けたが、ハッケンシュミットの答えは一貫して「グレコローマンのルールなら戦う」というものだった。99キロ対57キロという体格差を考えればどんなスタイルでも勝てそうなものだが。実際、ハッケンシュミットは、グレコローマンだけではなく、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに転向してからも、圧倒的な体力でたいていのレスラーを子供扱いしてきた。しかし、タニに関してはあくまでも慎重だった


ハッケンシュミットってこの他のエピソードも、日本で知られるほど有名なのは”元祖ヌルヌル疑惑”との異名を取る(取ってないけど、そういう説はある)フランク・ゴッチに負けたとか、”コンデ・コマ前田光世も挑戦したとけど谷のときと同様にヘタレて逃げた(これ、たぶん前田の自伝および横田ジュンヤの「明治バンカラ快人伝」にも載っている)とか、どうも引き立て役っぽい部分しかないのは気の毒だ。

谷幸雄」のウィキペディア項目を作るべきではないか。

だれか作って。「翻訳ブログ」で、ほとんどの人生と事歴は紹介されている。
私、はてなの記法を覚えるだけで精一杯で、修正や追加はできても項目を一から作ったことなくてさ…いよいよ誰もやらないとなれば、やってみますけどね。
もしくは「ジョージ・ハッケンシュミット」のウィキペ項目に、「日本人との因縁」という項目を作るところから始めようか。