http://senkanburian.jugem.jp/?eid=498
にて、特にはてなでは長く話題になっている「ゼロ年代の想像力」を評しています。
ここでの批判を自分なりい要約すると
「個人的感性と、作品の時代性を混同しているのではないか」ということ
・・・作品群から、何らかの時代性を抽出するのであれば、そうした個人の資質や諒解とは距離をおいて、ある程度の万人にも通じるような、論理的な基準や根拠を提示せねばなりません。そうした裏づけが、全く出来ていませんでした。
この本に書かれた内容を、仮に違和感なく、自身の感覚同然として受け止められる人は、きっと全体の2割でしょう。残りの人間は、著者の言わんとするところがよく分からない筈です。それは、個人の感性、現実の受け止め方に起因することだからです。
そうした個人の感覚に帰することを峻別せず、まるで「時代全体の空気」のように扱ってしまっていることに、同書の重大な欠陥があります・・・
個別の読解に関しては該当作を自分が見ていないこともあり分からないのですが同書の「電脳コイル」の説明を挙げています
・・・具体例を挙げましょう。『電脳コイル』のクライマックスで、主人公の少女ヤサコが、もう一人の主人公であるイサコの精神を、電脳世界から連れ戻し、一連の事件が解決に向かう場面があります。
その感動的なシーンを、著者の宇野常寛は、「中年視聴者層に向けた、少女愛のメタファ」と切って捨てるのです。有り得ません。まともに作品を見ていたら、こんな感想は出てこないでしょう。
だって、ふたりの・・・(略)