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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を見たの記

もう見たのは二週ほど前なのだが、ついつい間延びして書く機会をうしないそうなので、表題だけでも書いておいて自分を追い込もう。


映画の内容は町山智浩ブログ
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080516
「2008-05-16 アフガンを助けてタリバンを育ててしまった男」を参照のこと。

チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』は、1980年代、ソ連に侵攻されたアフガンのイスラム・ゲリラを密かに支援して、対空ミサイル「スティンガー」を供与した、民主党の下院議員チャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)を描く実話。


 しかし、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』は、ふざけたブラック・コメディとして演出されている。
 それは、アメリカのアフガン支援が笑うしかない悲惨な結果を生んだからだ。

 アメリカのおかげでアフガン・ゲリラはソ連を撃退し、それがソ連そのものの崩壊へとつながったが、ゲリラのタリバンが政権を握り、アルカイダを抱えて・・・・


映画を見て思ったのは、某有名ドラマの言葉をもじれば「戦争は会議室でも起きてるんだ!」ということだなあと。
現場の人間が、冷房の効いた部屋で数字と統計資料を見て、葉巻をくゆらせながら政策を決定していく背広組に反発や軽蔑のまなざしをむけるのは自然の情、というやつだが、かといって必要以上に軽視したり蔑視したりするのは、例えばロジスティックスの軽視と地続きにもなりえる。
チャーリー・ウィルソンという一個人にどれだけ帰するかは実際のところ不明としても、支援する場所も最初は分からないような人々が「あそこへの支援は300万ドル」「その倍に」などと決定する金額の多寡、支援する武器の種類が確実に戦場の風景も変えて行く。


この映画で面白いのはチャーリーのパーソナリティだ。
酒、女、そして麻薬?も大好きな俗物(実在の人物で協力もしてるのにこう描けるのがハリウッドの底の深さ…)であるチャーリー、を強調するのは、ひとつには実際にそうだったからだろうし(笑)、ひとつには「ダメ議員が一念発起、偉大な仕事を成し遂げました」という”政治家版ROOKIES”を描きたかったのだと思うのですが、プラスして「コチコチの石頭=宗教右翼はやっぱりダメですよ。幅広く俗にも足を突っ込んだ人こそ信頼できるのです」というようなスタンスもあるんじゃないかと。

まあ、この作品に出てくる「(宗教)右翼」も相当な俗物、奔放さを秘めた女傑なのだが、その人とチャーリーの差異というのが面白いのである。



そもそも、アメリカにおいて80年代、ソ連に蹂躙されたとはいえ何の思い入れも知識も一般アメリカ国民が持ち合わせていないはずの「アフガニスタン」に同情を寄せ、アメリカの支援を声高に唱える勢力は、当然ながら強烈な反共主義と使命感を持ち合わせていた。

そしてそのバックボーンに、やはり宗教性というものを持っていたようなのだ。
映画を見てから少し時間がたったので記憶曖昧だが、そういうアフガン支援パーティで一席ぶった反共女傑は、ついつい宗教性というかキリスト教系の論理をちらつかせ、ゲストのイスラム導師を鼻白ませる。
チャーリーはそこで慌てて、「あんまり宗教のことをいうな!」と釘を刺す・・・という場面があった。


だが、宗教右翼問題についてもうひとつ余談を申しあげ弁護するなら、冷徹な計算や戦略論では「その問題、切り捨てたほうがおトク」と結果が出てはいおしまい、になりかねない問題を拾い、自分の利害得失を超えて関わっていく人には、強烈な正義意識があり、これは相当の割合で宗教的確信につながっている可能性もある。
このリンクのようなエピソードも参照。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20060918#p2


アメリカよ、家に帰ろう(世界の紛争や問題などほっておけ)」と叫び、パパブッシュに挑戦したパット・ブキャナンのような孤立主義に歯止めをかけるのは、そういう強烈なー――独善的でもある正義意識を持つ宗教的な人々、だったりもする。
もちろん宗教右派孤立主義もあるけど。


さて、そしてチャーリーはCIAの中でもはぐれガラスのような、型破りのギリシャ系職員と二人三脚を組んで「秘密資金と最新武器の投入によるゲリラの強化、そしてアフガン駐留ソ連軍の消耗を狙う一大作戦を展開する。世界を飛び回る彼ら自身は一発の弾丸も撃たず、一発のミサイルも発射しない。だが、彼らの存在はパワーオブバランスを明確に塗り替えるものだった。

同時に、巨大帝国ソ連を妥当するための彼らの武器は強固な信念でも高邁な理想でもない。
ワシントンを泳ぎ回った俗物チャーリーは朝三暮四、足して二で割る「利害調整」に抜群の才能があり、それが実は国際政治でも大きな意味を持つことになるのだ。


なにしろ、まず(後半は違ったと思うが)アメリカが正面から武器を援助したと分かるのはまずいので、逆にソ連製の武器をたくさん持っている国に「その武器をアフガンゲリラに渡してくんない?」と頼む。
そうするとエジプトとかパキスタンの協力が必要になる。
それへの見返りを渡そうとすると、こんどはイスラエルが「アラブを強化させるのか!」と反発する。
おまけに金を握るアメリカ議会の重鎮は「パキスタンではレイプの被害少女が逆に姦通罪に問われる野蛮国だ!少女を解放しないと援助できん」とか言い出す。

これをまあ、あっちの顔を立てたりこっちの顔を立てたり、名誉欲を満たしたり同情を買ったりというふうにしてなんとかかんとかやっていくところは、私が個人的に好きな「取りつくろいもの」の一種でもある。


あ、そうそう、そのパキスタンの野蛮さを批判した議員(チャーリー以上に議会の権力を持つボス)は結局、アフガン難民キャンプの悲惨な現状を見て、大幅援助に舵を切る。
その際、この米国議員も「アッラーアクバール!!」と絶叫。難民キャンプは大歓声にわく。
このへんは、米国とイスラーム原理主義が完全な不倶戴天の敵のように見える今現在から見れば奇異でもあるが、国際情勢的にはほんの四半世紀前、たしかにアフガンを舞台に米国ーイスラム同盟が(大きなソ連という敵を前にして)成立していたのだ。
と同時に、やはり不気味なまでの宗教性を持つ米国と、イスラムには「あいつらは愚かな異教徒だが、造物主を信じているだけ、無神論のアカどもよりはましか」というような奇妙な連帯感があるんじゃ無いかって、そういう汎神論の偶像崇拝国の民からは見えてしまい不気味でしたよ(笑)。


そして登場しますは天下に名をはせた「スティンガー」(でいいのかな?)
あれやこれやの利害調整と無制限の資金援助により剽悍無頼なアフガニスタンの戦士どもの手に渡った携帯ロケット砲、それまではほとんど七面鳥を撃つような感覚で、女の話なんぞをしながら出撃してきた悪魔ヘリ「ハインド」(だよね)を次々に撃墜する。
”パンジシール渓谷のライオン”ことマスード司令官も立ち上がる。



余談だがこの時、やはりソ連軍人の立場に敢えて立てば、ここでソ連のヘリ兵士たちは「死ぬ」。
そしてそれは、映画の構造どおり、もとを辿れば米国が資金援助したからだ・・・という話になる。ただ、その前の場面にあった難民キャンプのように、何も対処しなければ今度はアフガンのソ連軍の支配と、そこから生みだされる「死」もまた変わらないのだ。
政治の複雑さとしんどさを少し、製作者の意図とは別に感じる場面だった。


これらの被害は少しずつ少しずつ蓄積し、ついにアメリカはイラクから、じゃなかったソ連はアフガンから撤退する。そしてチャーリーは「戦後復興のためにアフガンに学校を作ろう」と主張するが、主要な目的を達成した議会はさっさとアフガンから手を引く。


直接の描写はされていないが、当然これは町山氏が書いているように、その後のアフガンが原理主義タリバンによって支配され、911につながっていくことを暗示しているのだろう。
映画の中でもはぐれCIAは、翻訳調の東洋のことわざとして「塞翁が馬」を紹介している。うまくいったと思ったことが失敗のもとで、それがまた場面が変われば役に立つ・・・という意味だから、当然これもビンラディンを暗示しているんだろうな。


「われわれはうまくやった。だけど最後に失敗した」といったチャーリーの独白で映画は終わる。



さて、どういう意味がこの作品にはこめられているのか、少々難しい。町山氏のいうようにブラックコメディ仕立てではあるけど(ロード・オブ・ウォーをちょっと思い出した)やっぱりチャーリーをかっこよく描く場面もある。


そもそもアフガン支援の強化自体に歴史のジャッジを下すなら、「その後ビンラディンを生んだから失敗だった。やるべきではなかった」というのも少し一面的ではある。ソ連のアフガン支配をそのまま傍観できるか?にイエスとは言いづらいわけで、だからこそこの映画は複雑なのだろうな。

へたしたら
「うまくやれば陰謀とか地域の紛争・代理戦争はこうやって勝てるんだよ。それに勝てない今の政権はなんだコラ」


みたいな、逆の意味での肯定論による現政権批判かもしれないしさ。
まあ、そういう点でいろいろと、複雑に面白かったです.