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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

被害者についてどう語られるべきか

被害届を取り下げたということで話がより一層複雑になってしまっているが、今回事件が発生した時に、「注意により防げた事件では」云々という議論が発生した。
http://www.j-cast.com/2008/02/18016810.html
に紹介されている論調などが典型的な一例ということになるだろう。

これで気になって、探した記事が最近見つかったので、遅ればせの話ながら資料としてご紹介したい。


1984年3月10日 朝日新聞天声人語」。
なんについてかと言うとその時大きな話題を呼んだ「宮沢喜一監禁・恐喝事件」の話。
事件の概要は以下の通り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E5%96%9C%E4%B8%80

1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷しながらも一人でその男を取り押さえたという事件がある。

この事件を、当時の人語子はこう論評する。

・・・今回の襲撃事件は、かなりの怪事件である。カネ目当ての犯行か、あるいは宮沢さんの名誉を傷つけるために仕組んだ陰謀か。その両方か。慎重そうに見える宏池会の会長代行が なぜのこのこと密室に入っていったのか。庭野会長(※当時の立正佼成会会長)の名前を使われたのではだまされてもしかたないという雰囲気が今の政界にはあるのだろう。この人の名前の誘引力は相当なものらしい。


「なぜのこのこと密室に入っていったのか」という描写には、ある種の価値判断、批判が含まれていると考えて差し支えあるまい。また、「雰囲気」を勝手に推定ということもしている。

セカンドレイプ」的な考え方を敷衍すれば、この場合、宮沢に対する「セカンド監禁」とか「セカンド恐喝」ということになりかねない……と、いいたいところだが、実際のところ、この事件はやっぱり不可解であり、宮沢の行動は謎があり、さらにいえばうかつな部分もありだ。ジャーナリズムや第三者がそこに謎や批判を浴びせても、やむをえないという部分は確実にあると思う。
仮に宮沢が、そういう詮索や批判に傷ついても、斟酌するわけには行かないはずだ。。


じゃあ、今回の事件で中学生の被害(届けが取り下げられた以上ややこしいんだけど、あえてざっくりと)に関し、同様な詮索や批判を(公に)していいかというと、これがまた違う。



ひとつは、(ここは一番極端な差があるんだけれども)まあ宮沢という人は国会議員という一番詮索を受けてしかるべき職業であるということ。
対する沖縄のこの事案は、当事者がだ中学生である以上、年齢的に「分別の無さ」はあらかじめ想定というか許容し得る環境であるのだ。だからこそ未成年への誘拐などは罪が重いのだろう、ということ。これが一点。


もうひとつは、沖縄の一件が性犯罪(上の注釈に同じ。)の疑いがあった事案だったと言うこと。
単純な話で、性にまつわることは、ある種の口ごもり、社会的タブーが存在する。このことはもう議論の余地の無い話だと思うし第一、正直議論しても論理的な整合性は出てこない。
そうだからそうだと思う、ぐらいの意味しかない。


このタブー部分が、事件自体を隠蔽したりだなんだになる弊害もあるのだが、例えば性犯罪ではあまり微にいり細に渡った犯行描写や、被害者の名前や住所の描写などが消えるわけですから。そして、そういう部分で「あえて触れるべきではない」言葉の中には「被害者にかりに(例えば宮沢喜一がやったような)うかつさ、不注意があったということの指摘」も入っていると思う。

つまり、例えば宮沢と同じシチュエーションで成人女性が密室に呼ばれ、性的な被害を受けたとしても、新聞コラムで「なぜのこのこと密室に入っていったのか」とはかきにくい、ということだ。
それは、性質上しょうがないし、ロジカルな議論で突き詰めても仕方ないと思う次第だ。


要点だけまとめる。

A・本来、犯罪の報道の中で「被害を受けた被害者『にも』不注意があったのでは? or なぜそんな行動を?」と指摘、批判、疑問を呈すのはジャーナリズムなり、第三者の受け止め方としては、別段問題は無い。


B・しかし、とくに被害者が低年齢の時は「判断力の少なさは込み」として、いちいち言ってもしょうがない。


C・そして、性的な被害などが中心の時は、論理とは別に一種の習慣的タブーとしてこの部分をあえてふれないという選択もあり得る。


D・AとCは、特にロジカルな思考では矛盾する。Cは慣習、風潮にのっとった話なので、論理的にディベートをするならAのほうがたぶん正しい。だが、もともと理屈に合わないことを盛り込むべきなのだ。


というのが現時点での私の考えで、
だから今回の話は、被害者(あえてこうかく)の落ち度を、論理的に指摘できようがどうだろうが、タブーとして触れないという形は正しかったと思っている。