いや、昨日ニュース番組を見る時間が無かったこともあって寝耳に水も水のうち、なんだけど。
この事件のころは小さい子どもだし、興味も特に無いんだけれど、ひとつだけ感想を。この前、今から思えばグッドタイミングで鳩山邦夫が「冤罪」の定義について発言した。
真意が何であるのか、そもそも本人が本当に把握しているのかもよく分からない話だったが(笑)、それはともかく、あの発言・・・というよりむしろそれへの批判も含め、無罪・無実・冤罪の間にどういう差を設けるのか、それともイコールでいいのか。
- 作者: ジェフリーアーチャー,永井淳
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1988/09
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 5回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
三浦和義氏に関して言えば、日本国において殺人事件に関しては冤罪なのである。(※たぶん鳩山弟定義では違うが)だって日本国の権力機関たる裁判所がそう決めたのである。そしてその判決は確定したのだから、ひっくり返しようがないのである。
アメリカで同じ罪の容疑?で逮捕された人であっても−−−もちろん米国でも推定無罪であるが、日本においては推定ではなく完璧でピッカピカの無罪を権力が保証し、一切の異議を受け付けない。それが国家権力の恐ろしさなのだ。
実はこれ、タイで円谷プロが勝訴した時に感じたのだが(笑)。スケール小さっ。
あれは書類が偽造じゃないかというとんでもない事実関係も争点になっている。
で、タイでそのへんのことも勘案され円谷プロが勝った。
だから日本において何かあるかというと、最高裁までいって確定したのだからあるわけがないのだ。それが国家というわけなのだ。
さらにいえば「自由なジャーナリズム」について
三浦氏がアメリカで有罪に仮になったとする。
そうすると「疑惑の銃弾」と言って彼を追及し、無罪などを受けて民事でも次々敗訴した日本の雑誌ジャーナリズムは正しかったか否か。
単純な事実誤認はともかく「やっぱり三浦が殺したんじゃねーの?」というスタンスを、国家の裁判所が下した判断に関係なく取りつづけたことの評価、位置づけも難しい。
裁判所の判決と言うのは所詮国家権力の一判断、以上でも以下でもない。国家に屈しないのがジャーナリズムであるが、ならば三浦有罪視報道も反国家の取り組みかもしれない。