INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

小林よしのりvs中島岳志の論争を読むための参考資料

今月の「SAPIO」を少々遅れて、この前読んだ。
小林よしのりが「パル判事」の評価をめぐって、中島岳志の論考を批判している。
中島岳志という名前はここでも何度も紹介しているね。「ダルビシュ級、楽天田中君級の人材」と紹介したこともある、とにかく若き俊英だ。
問題になったのはこの本。

パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義

パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義

今回の議論の凸凹を慣らし、せんじつめていくと、最終的に残る論点は「どの資料を使うのがより正確か」といった話なのだが、昔は月刊誌や週刊誌でやり取りするのが論争の流れだったし、小林氏も「次号もこの問題を取り上げる」と書いていた。
が、ブログ時代のスピードは今までの常識を超えたものになっている。中島氏はそもそもブログ
「コールタールの地平の上で」
http://indo.to/log/nakajima/

を持っていて、早速
小林よしのりさんへの返答」
http://www.indo.to/log/nakajima/?itemid=880
を書いている。今回の論争の本筋はそちらを読んでくれればいいのですが 

それとは別に、中島氏は世代的に、小林よしのりの「ゴー宣」に思春期に触れているのである。
そして一種の思想的な闘争をしていたのだ。今回の論争の背景を知るには大きく役に立つと思うので、これを紹介しよう。

出典は彼の処女作「ヒンドゥーナショナリズム」。

私が大学に入学したのは1994年である。翌年、オウム真理教の地価立つサリン事件が起こった。現代社会のあり方に疑問を持ち、自己の存在の有り方を懸命に問う若者たちがあのような凄惨な事件を起こした。

一方で、社会学者の宮台真司は、彼らの一世代下の私たちを「まったり世代」と称して賞賛した。生きる意味などを問わず、その時々の楽しさという「強度」を求めて「終わりなき日常」を生きてゆく。それこそが成熟した近代主義の生き方である。そう彼は主張していた。
「なるほど」と正直思った。しかし、強烈な違和感も同時におぼえた。「信仰があるからこそ、終わりなき日常を生きて胃ゆけるのではないか?」そう思った。

また、同時に保守派による戦後民主主義批判が大きな流れになっていた。その議論に、私は強くひかれた。しかし、彼らが振りかざす「公の精神」という観念に強い疑問を感じた。「結局のところ、公と私を二分化する近代主義者なのではないか?」と思った。
小林よしのりは『戦争論』や『ゴーマニズム宣言』などの一連の著作で「公」の精神の重要性を説いている。そして、一方で「私」の領域では非常にふしだらな行為を行っていることを激白している。公の領域では立派な日本人を演じる半面、私の領域においては何をやってもよい。これを読んですぐにマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のくだりを思い出した。ウェーバーは、世俗化し合理性や効率性のみを追求する近代社会が「精神なき専門人」と「心情なき享楽人」という二分的な人間を作り上げてしまったことに、強い警告を発していた。「信仰を失った保守主義者は単なる近代主義者なのではないか?」と強く思った。

私には現代日本の出口が全く見えなかった。
私は日本社会が歴史的に蓄積していた宗教的伝統を見つめなおしたかった。しかしそのような意識は、ともすると信仰なき近代的保守主義者のイデオロギー的なナショナリズムに回収されてしまう。かといってカルト的な宗教には惹かれない。ポストモダニズムは「脱構築」を目指すばかりで、あるべき価値を語ろうとしない。価値を語ることの権力性ばかりを強調する。うんざりである。
私は悶えていた。  (14-15P)


90年代(半ば)にものを考え始めた若者の思想動向としては非常にリアリティがあるのではなかろうか。
そして彼はインド、それもヒッピーやニューエイジ的な神秘思想、古代思想ではなく「現代インドの抱える問いと私の問いはつながっている」として、一連の著作につながる研究を始めるのである。

これまで当ブログでは
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20051206#p3

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20051207#p4

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070706#p2

の三つのエントリを書いている。だがどれも、本論にあとで入ろうといいつつまだ書きおえていない未完の文章ばかりだ。特に最後のは、今回紹介した新書の紹介で、続きを書くといいつつまだ書いていない。
なんとか完成させねば。


まったく余談だが「インド」「コールタール」が並ぶと
グレート・ガマvs巨大ワニ
ダラ・シンvs水牛

を連想してしまうな(笑)。俺だけか。

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義



ちなみにこの論争は盛り上がっているかな、と両者のはてなキーワードを見ていたら、案外それほどでもない感じ。
やはり本質的には、資料の扱いをめぐる地味でテクニカルな話だからか。

ただし、一人の超大物が参戦予定。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070906

中島の「パル判事」本については、活字にする予定なので、書かない。

小林よしのりの本編で印象に残っているのは「ガンジーの非暴力不服従とは”武器を持たない玉砕”なのだ」という指摘で、これは絵の迫力とも相まってなかなか説得力がある。
これはNHKの番組での討論でも出ていたそうだ。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20070917

・・・小林よしのり氏が「ガンジーの非暴力運動は自分の命を投げ出すんですから、命が大事なら非暴力運動はできませんよ」と反発したが、ここを議論すれば、命より高い価値はないという考え方が、戦後日本的な特殊なものであることだけははっきりしたかもしれない。現在の日本国民のほとんどは、世界に普遍的な考え方だという前提に・・・


同じようなことを西部邁もかつて言っていて(90年代の憲法記念日に合わせ「憲法」を扱った朝生のいずれか。色川大吉と同時出演)そのとき「私はガンジーは好きでもなければ嫌いでもない中立だが、あれは相当な宗教的確信と犠牲を許容しないと無理だ」といっていた。