(皆様へ。このブログ内の佐高信批判は見出し左の「佐高信」をクリックすると全部見られます)
最近、ひさびさに話題の「週刊金曜日」。話題のなり方がアレですがな。
概要を説明するのにどこか適当な場所は、と思ったら、週刊金曜日のキーワードも大盛況だ。
たとえばここをご覧ください。
「『週刊金曜日』主催「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」まとめ 」
http://www21.atwiki.jp/shukin/pages/1.html#id_a66e829b
http://d.hatena.ne.jp/ston/20061201/p1
さて、以前のコメント欄でこう書いた。
# ユベンティーノ 『こんばんは
佐高信へのツッコミ読ませていただきましたが大変オモロかったです
ご存知だと思いますが佐高をはじめとする例の雑誌の面子が下品なイヴェントをしていたそうで、そちらへのツッコミ期待してます』# gryphon 『下品なイヴェント<それは後で触れようと思ってましたが、これは結構慎重に腑分けするべき部分があって、必ずしもいつものように全面的に批判するのとてゃちょっと違うことになると思います。
一言で言うと「許される許されない」の部分の批判と「下品上品」の部分の批判の違いですね。しかし、新潮に乗っていた範囲では佐高氏は逃げられるところも逃げられず墓穴を掘っている(笑)。
ただ、その前の前の週のサン毎批判や「岸は戦犯」発言批判も、映画公開に関係した佐高氏の藤沢周平論批判もあって、もうパンクしそうだ(笑)』
どういう風に区分けするのかというと、結構みんなちゃんとそこはやっているようです(多少意外)が「皇室自体を風刺、揶揄、モノマネ」すること自体の是非とその内容の区分けですな。
天皇のもの真似というのは、実を言うとひそかな寄席の人気芸でありまして、前書いたかな、90年代に「林家つん平」という芸人が鈴本とかで、これだけで一席やっておりました(笑)。
また、今はお茶の間の普通の風景であるタモリ(今年も「徹子の部屋」年末芸の季節がやってまいりました!!)も、この天皇モノマネが抜群に上手い持ちネタであります。少数のバーの催しやパーティで披露していた。
かつての赤塚不二夫系人脈だろう、その場に出席した筒井康隆がその光景を書いていた。
たしか最後は激昂し「まだXXXXには渡さぬ。絶対に渡さぬ」と言い出すというオチだったはず。
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ちなみに、彼はこのあといっぱしの笑いの通ぶって「私はたけしよりタモリが好きだが、やはりこちらのほうが毒があるのだろう」と言っていた。おいおい。
基本的にタモリの「天皇ものまね」も思想とは別のナンセンスな笑いだ。同じ東北出身のため君がヨイショしている寺山修司へのモノマネ風刺と変わらないし、つうかタモリは同時期の持ちネタが「パラリンピックの表彰式」とかだったんだが。
それも含めてタモリを「毒」と評価しているかといえば、辛淑玉が週刊金曜日を辞めたときに辛に同調した一文で違うことが分かる。だが、そのへんにについてはわき道なのでこれ以上は触れない。
(補足 昔もほぼ同じこと書いてたな。これじゃ繰り返しの佐高だ)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050215#p5
ちなみにその後、ビートたけしが佐高氏に右代表される「たけしには『真の毒』がない。政治風刺とか危ないことをやらない」
という声にまとめて反論。「今は政治家を笑いものにしたってちっとも危険じゃない。現場で本当に危ないと思われていたのはスポンサーをネタにしたり、他の番組の話をしたりすることで、それを最初にやったのは自分だ」
これは正しい指摘だろう。
もうちょっと話を本筋に戻すが、象徴という形で政治に直接は関わらない存在である皇室は、政治家と同様の批判や揶揄を感受すべきかというと微妙ではある。ただ、その地位を考えるとやはり多少のパロディや揶揄は、一般論としてはあってしかるべきなのである。
だから、「日本のさる高貴なご一家」というコンセプト自体はニュースペーパーの持ちネタとしてこれまでも存在していたし、していい。週刊朝日の巻末を飾りつつも、思想的には「江戸っ子的保守」である山藤章二がこのグループをプッシュしていたのもそこで分かる。
ただし、ここがよくあるパターンなのだが、こういう「権力を批判」しているというスタンスは、自らがそれに酔ってしまい「権力批判なんだから何でも許される」「権力批判なんだから質は検証されない」というゆるさ、ずさんさにたやすく陥ってしまう。永六輔もすぐれた演芸・芸能評論家のはずだが、以前からその弱点はあった。
少しシチュエーションを変えて、たとえば「権力者の批判である」という言い訳なら、
野中広務批判と称し「野中はブラク出身。だから駄目なやつ」という設定でコントをやれるか。
安倍晋三とファーストレディーの批判・風刺だとして、実子のいない夫妻を揶揄し
「種無しカボチャの安倍、石女のアッキー。少子化対策できるのかよ」みたいな設定でできるか。
橋本龍太郎批判だとして、「障害者の息子(父親龍伍氏は障害者だった)はやっぱり性格が歪みますね」とやれるか。
(例示が実に下種なものいいだが、実際の週刊金曜日の
催しと釣合いを取るとこうなってしまう。ご理解ください)
今回、週刊金曜日の催しでは、報道によれば前立腺がんの話も加わっているのだから、権力批判ということで免罪符になるかはちょっと考えれば分かること。そういう問題で内ゲバしまくっていた編集部は何も学んでない(笑)
ただ、この例示したネタであっても、また今回の皇室(というか前立腺がん)ネタも、禁止することはできないし、暴力的な妨害からは保護されるべきだ。これは国家権力(警察)を発動し、国家によって、国家の名によって彼らを保護しなければならない(笑)。かれらが喜ぶか、受け入れるかはしらんが(笑)手荷物検査や防犯カメラぐらい使ってもいいだろう(笑)。
ただし、それに対してブーイングも批判も抗議もあるし、笑いの「質」も容赦ない批評にさらされる。別に構わんというなら構わん(禁止する理由は無い)し、勝手な自滅だが、だいぶシンパ、コアではなく周辺の「やや支持層」を失うことになるぞ。
コントに司会的にからんでいた永氏が「僕は内容を知らない」とか事実と異なることを取材に答えているのもねえ。
そして傑作なのは佐高信氏。
だが一方、司会を務めた佐高氏の反応は全く違う。
「皇后を中傷する劇? いやいや、そもそも劇の中で皇室なんて一言も言ってませんよ」 と、こう語るのだ。
「あくまで“さる高貴なお方の奥様”としか言ってないんですから。だから皇室の中傷などではありません。 それは受け取る側の見方ですから、こちらがコメントする理由はありませんよ。そんなこと言うなら核議論と同じで、こっちも封殺するな、と言いたいですね」
はい。ここで「ラストニュース」という作品を紹介しよう。
原作・猪瀬直樹、作画・弘兼憲史
たしかこのコミックス6巻だったと思うが、「辛口評論家」という回が存在する。
どこをどう見ても、佐高信がモデルだという「田山孝」というキャラが登場し、彼への批判がストーリーの柱になっている。
現実の佐高氏のトレードマークでもある部屋の汚さ、資料の山を揶揄して「一見すごい資料に見えるけど、こんな乱雑で必要な時に資料を検索できるのかな・・・」と主人公が疑問に思うところは、資料の山をきちんとノンフィクションに収斂させる猪瀬らしい鋭い批判だと思ったが(俺はこの部分に関しては、残念ながら佐高氏に近い(笑))、あとはどうということは無い話だ。まあ、猪瀬氏は佐高に対しては直接の激突対談で、十分鋭く致命的な佐高批判をしている。
まあ、内容自体はどうでもいい。これに関する佐高の反応が見ものなんだよ。
今回のコメントと合わせてお楽しみください。
大体、猪瀬はカゲではいろいろ言ってくるくせに、実名を挙げて私に向かってきたことは無い。今度も逃げられるように「田山孝」名で、「この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません」という断り書きまでついている。。小心者らしい配慮だ。
この中で。私ならぬ「田山孝」は「自分で取材しないで人のふんどしで相撲を取る評論家とされている。古本漁りの猪瀬にそう言われるのは片腹痛いが、少なくとも私は猪瀬より取材力があると思っている。
(「タレント文化人百人斬り 社会思想社教養文庫版132P)
サタカ先生、なんで作品の中の「田山孝」への批判を、自分への批判のように受け取っているんですかぁ?
ひょっとして、名前が違っていても、実名を挙げなくても、モデルであることが総合的に判断できれば、それはその実在の人物への批判になるということをみとめてらっしゃるんですかあ?(爆笑)
ま、サタカ的ダブルスタンダードとしては並みというか平凡だな。