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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

吉村昭氏のお別れ会

吉村昭氏(作家、7月31日死去)のお別れの会 24日午後4時から東京都荒川区東日暮里5の50の5、ホテルラングウッドで。喪主・葬儀委員長は設けない。故人の遺志により香典・弔花は辞退するという。


吉村昭氏の綿密に綿密を重ねる取材はもはや伝説で、「事件の時間が一時間でも違っていれば意味が無い」「当日の天気が分からなければ駄目だ」など、カール・ゴッチ的なストイックさで資料を追い求めた。今は常識、一般的な史実として共有されているが、もとは彼が発掘したという事実も非常に多い。
みなもと太郎風雲児たち」も、吉村氏のおかげをこうむっている点は非常に多いな。


さあ、読んで「面白い」かというと、これは個人的には、あまりにも事実を淡々と追い過ぎて、カメラを一ヶ所に据え付けた画面のような印象もやや感じられる(だからこそ信用できるのだろうが)。これも二派、ということになるのかもしれませんが、司馬遼太郎吉村昭どちが好きですか、ということになれば、私自身は司馬派だ。
吉村氏はもちろん、司馬遼太郎的な小説を評価はしていなくて、司馬没後「司馬遼太郎賞」が鳴り物入りで成立し、栄えあるその第一回受賞者に選ばれたとき「彼の小説を読んだこともないし、知らないのでいらない(大意)」という、実に泥を塗るような形で辞退している(笑)。


対立を表面に出さない日本社会において、これは結構な文壇的大事件だったと思う(司馬サイドだってこうなると分かっていたらそもそも賞を与えまい。この吉村氏の心境は、公になっていなかったと思われる)が、あまり「吉村昭 司馬遼太郎賞 辞退」などで検索してもこれは!という文章は見つかりませんでしたな。
この文章はやや詳しく、面白かった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/bbs/kakolog/log34.html

吉村昭歴史小説

管理人さんが言っていた「江戸時代北方探検シリーズ」というタイトルに吉村昭氏の作品「間宮林蔵」を思い出しました。司馬さんがなくなってから、吉村昭歴史小説を読み始めるようになり、すっかりファンになったのです。氏は北海道についていろいろな小説を書いているので、原作になるのかなーと思ったのですが、調べてみるとその他の作品は明治時代以降の題材が多かったので、ボリューム的に難しいですね。でも「赤い人」や、「北天の星」など面白い話がたくさんあります。
氏の作品は、いくつかドラマ化されています。「漂流」は映画になりましたし、「破獄」はドラマになりました。見てはいないけど「ポーツマスの旗」もドラマになっていたような。
たくさんある小説の中で、大河ドラマにちょうどいいのは「桜田門外の変」と「天狗騒乱」を組み合わせた尊皇攘夷派のドラマとか、「ふぉん・しーほるとの娘」を主軸にした長崎、西日本を舞台にした話とか考えられます。水戸を舞台にした物語はこの間徳川慶喜でやったばかりですが、この攘夷派の動きに対する描写と同情が少なく、あちこちで不満の声があがっていたようです。「ふぉん・しーほるとの娘」イネは「花神」で浅岡ルリ子が演じたのが印象に残っていますが、彼女を主人公にしても面白い話が描けるように思います。

だいたい吉村昭の描く幕末の話は、視点が見事に政治の主流からずれています。水戸の攘夷派の話、高野長英高山彦九郎川路聖謨。いずれをとっても歴史の動きを、明治政府を主体とした視点とは別の見方で捉えており、興味が尽きません。最近になって知ったのですが、吉村昭氏は「司馬遼太郎賞」の受賞を辞退したそうです。詳しい理由までは知りませんが、おそらく歴史に対する取り組み方が異なるため、この賞の受賞を潔しとはしなかったのでしょう。氏の描く小説は、成功者よりも、その裏に隠れつつ時代に真摯に取り組み続けた人間を、あくまでその人間固有の視点から描いています。“時代を俯瞰する”というような神の視点を氏は取りません。題材が異なっているのは、そのような歴史観の違いが端的に現れているからでしょう。


コラム、エッセイも定評があるのだが、本人が極めて律儀かつ、きちんとした性格の人である(あまりにきちんと締め切りを守り、取材もほとんど自前でしてしまうので、逆の意味で「編集者つぶし」=何もしないで済むので鍛えられない、だとも言われる)ため、けっこう細かいことで怒ったり「この店はいやだ」とか「しつけがなってない」とか辛らつに書くエッセイが多い。これも、自分がだらしないせいか自分が怒られている?みたいで、個人的にはあまり好きじゃないなあ。


何が、では一番面白いかと言うと、間違いなくお勧めできるのは、「私はどうやって、この史実を調べたのか。どういろいろな資料から、これが正しいと判断したのか」という、楽屋裏を明かした史実エッセイ、取材報告コラムだ。

史実を歩く (文春新書)

史実を歩く (文春新書)

ここで「生麦事件の時の天気を調べる」という一件が載っていたかな?


戦艦武蔵ノート 作家のノート1 (文春文庫)

戦艦武蔵ノート 作家のノート1 (文春文庫)

それは、他のジャンルの仕事をしている人でもほとんどの社会人は「調べる」という行為が仕事に結びついている以上、(こういう紹介の仕方は大嫌いだが)「ビジネス的教科書」としても役立つ部分は間違いなくある。
また、それより、取材を進める上で多士済々の協力者、取材対象者と吉村氏は出会うわけで、そのスケッチがさすが短編の名手らしく見事。
とくに「破獄」取材の中で取材協力・・・いや取材「非」協力の看守の話は、ごく短いエッセイだがあまりにも忘れがたい。(といいつつ、どの本に載ってたか忘れた、すまん。「街のはなし」だたっと思ったら違っていた)。

あ、尻切れトンボになってしまった。
この記事も、すぐになくなりそうなので転載しておく。こういう協力者がたくさんいるのが吉村氏の凄みなのだ。


東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060822/mng_____thatu___000.shtml

遺影に捧げる水彩画
吉村昭さんに、東京初空襲追った“同志”



 7月31日に79歳で亡くなった作家・吉村昭さん。吉村さんは東京・日暮里で生まれ、1942(昭和17)年の東京初空襲に遭遇していた。親交のあった元俳優、沢野孝二さん(77)は、米軍機を目撃する吉村少年の姿を水彩画に描き、24日のお別れの会に持参する。1枚の絵から浮かぶ吉村戦史文学の原点とは−。

 「この上をB25機が飛んできた。電線すれすれの超低空飛行で、銃座の射手の顔がはっきり見えた。衝撃的な体験でした」

 JR日暮里駅近くにある江戸時代からの老舗「羽二重団子」。五代目の二男として生まれた沢野さんは一九四二年四月十八日正午すぎ、店の前で米軍機を目撃したときのことを鮮明に覚えている。「店に入って『大変だ! 空襲だ!』と叫んだが、お客さんは平然と団子を食べていた。でも当時は連戦連勝のニュースばかりで、信じないのも当たり前だった」

 その直前、当時、開成中学三年生だった吉村さんも、自宅物干し台で敵機を見ていた。無類の凧(たこ)好きで凧を揚げていた吉村さんは、絡みはしないかと糸をたぐり寄せたと、後の著書に記している。吉村さんも操縦士の顔とオレンジ色のマフラーがはっきり見えたという。

 吉村さんの兄が交番に飛び込み「米軍機が通った」と伝えたら「流言飛語を話すな」と巡査に胸ぐらをつかまれたというエピソードも。当時、東京初空襲については詳細に市民に知らされることはなかった。

 二人は終戦後間もなくして、日暮里での演劇活動で知り合う。お互い近所で初空襲に遭遇したと知ったのは、さらに十数年後だった。

 吉村さんは、その後も東京初空襲に関心を持ち続けた。取材を続けるうち、日本兵捕虜第二号とされる人物に行き当たる。B25機を監視艇の乗員として太平洋上で発見。これを本国に打電したのを傍受されて米軍に撃沈された。この時捕虜になった水兵を主人公にした小説「背中の勲章」を書く。

 沢野さんは空襲の新事実を知るたびに、吉村さんに報告していたという。自らも銃後で見た戦争の悲惨さと愚かさを絵に描き、後世に伝える「絵による語り部」活動を始めた。沢野さんは「二人とも初空襲を“追っかけ回した”んです」と振り返る。

 昨年春、沢野さんは、初空襲で荒川区内を爆撃したのは二人が目撃した一番機ではなく、二番機だったことを、新資料で発見した。区内の爆撃地点は一番機の進行方向からすると不自然で、長年の謎だったのだ。

 沢野さんの報告を受けた吉村さんは「二番機がいたとは! 立派な資料を手に入れましたね」とはがきに記した。

 吉村さんは「公的な記録を残すべきだ」と二人の対談を提案。区主催で昨年七月に実現した。

 この夏、吉村さんの訃報(ふほう)を聞いた沢野さんは、自宅本棚を埋める吉村さんの著作をながめるたびに、涙を流した。家でじっとしていられず、「せめて絵を描いてしのぼう」と筆をとった。

 吉村さんは東京初空襲について「貴重な記憶だ」と重ねて話していた。市井の人々の「事実」を掘り起こしてきた吉村さん。「あれだけ採算の合わない緻密(ちみつ)な取材をした人はいない。感動を呼ぶ作品ばかりで、日本文学に金字塔を打ち立てた。遺影には『これまでお世話になりました』と言いたい」。沢野さんはしみじみと語った。絵は将来、吉村さんの記念館ができたら託そうと思っている。

   ×   ×

 吉村さんのお別れの会は出版各社と日本文芸家協会の主催で二十四日午後四時から荒川区東日暮里五の五〇の五、ホテルラングウッドで開かれる。故人の遺志で香典・弔花は辞退する。このホテルは一九四五年の空襲で焼けた吉村氏の家があった場所で、吉村氏が好んで使っていたという。

 文・石井敬

 吉村昭(よしむら・あきら) 1927年、東京都荒川区日暮里生まれ。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞。緻密な取材を基に「戦艦武蔵」「大本営が震えた日」などの戦史小説のほか、「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」など記録文学歴史小説の傑作を次々と生み出した。膵臓(すいぞう)がんのため、東京都三鷹市の自宅で死去した。