ヤングサンデーにて。
だが、個人的には出来栄えにやや首をかしげる部分も。この分析にはやや時間をください.
何に違和感があるかというと、この古典的(発表から30年近くを経て漫画化されるノンフィクションがあるだろうか?)名作を、前後編でもなく一回で収めるにはやはりそぎ落とさざるを得ない部分があり、最終的に漫画版は、本当に江夏の”一人称”の作品になったためだろう。
ややネタばれではあるが作品を語ると、江夏はこの「21球」で相手打線を封じるものの、その途中ではかなりピンチに追い込まれ、シーズン中は江夏豊の才能とプライドを尊重した監督も、ブルペンで次の投手の肩を作らせる。
しかし、江夏にとってはこれ(客観的にみれば「この程度」)はベンチの自分に対する裏切りで、その後は自軍ベンチと敵チーム、ふたつの敵との闘いだった・・・というのがこの作品のキモだ。
だが、ページ数の制限があり、あまりにその骨格部分に頼りすぎて、それを肉付けする周辺の群像を、原作ほどにはスケッチできなかった。そのため必要以上に”一人称”の作品になってしまったのではないか。
たとえば一人芝居などにするには、かわぐち版がいいのかもしれないが。
そこで野球の新ルールを提案
しかし、肉をそぎ落としたかわぐち版「21球」を見てあらためて思ったのは「野球は投手のものなのだなあ」ということ。
明治に野球が日本に入って以来、たちまちこのスポーツはわが国民を魅了し「スポーツの王」になった。
しかし、純粋にたとえば子供の体力向上、集団行動の精神を植えつける・・・という面から見ると、あまりにひとつのポジションに体の使用も、ゲームの帰趨を左右する要素も集中しすぎていないか。
この前、毎日新聞記者の「サッカーは遠方から入れたシュートの点数を増やせ」という議論を紹介したが、それと同じように、小生も野球に関して新たなルール採用を提案したい。
それは、「一イニングごとに選手はポジションを入れ替え、全員が全部のポジションを勤めねばならない」というもの。くしくも選手は9人、イニングも9回。
これなら、すべての人間が否応なくオールラウンドプレーヤーとならざるを得ず、体の筋肉も満遍なく使う。投手の連投による故障も減り、ピッチャー一人が優秀なために勝ち進むワンマンチームもなくなる。
なんかいいことづくめのような。
これはつまり
ルールで試合、競技自体が大きく変わるなあ、それほど大変だなあという話。
つまりは(略)