というわけで、「ブロディ・ホーガンもし闘わば?」とかで昭和のゴングは一冊もたせたこともあったように、誰かと誰かを交わらせたい、同一のフィールドで闘わせたり組ませてみたりしたいというアイデアは誰しも持ってるだろう。
前述のマッチメーカーも男のやりたい職業なのかもしれんが、これもやってみるとタイヘンだとかなんだとか。「AvsB」案が一発でハイやります、となるのはむしろ稀だそうだね。
まあその話は置いといて。
こういう感じで、意外な人と人が会い、一緒に仕事をすることでなにやら面白いものが生まれるんじゃないかと思う。
実は水道橋博士もこういうプロデューサー気質があるようで、どこかのムック(最近発売されすぎて覚えられん)で吉田豪と菊地成孔が対談したときに菊地氏が語っていたが、本格的に格闘技評論界に参戦した菊地氏を「●●やXに会ってみませんか?」と水道橋博士が熱心に誘ったのだという。
菊地はあまり社交的ではないというか、あまり内部の人と親しくはならない主義なので、その誘いには乗らなかったそうだが。
ちょっと残念だったな。
その吉田豪だが小生が吉田豪と本格的に対談とか、共同の仕事をしてほしいのが町山智浩氏。
なーんか記憶をたどると、吉田豪氏は「別冊宝島」にも何度か寄稿していたような気がするが、町山氏が洋泉社のほうに行ったのと時期的にずれているのかどうか。
試みにグーグル大明神に「町山智浩 吉田豪」でお伺いを立ててみると、町山氏は「豪ちゃん」(http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050619)と表記してるぐらいだし、たぶん面識とかあるんじゃないかと思う。いわゆるサブカルチャー的な業界にいるわけだし、「コラムの花道」という同じ仕事をしているからパーティとか接待とかあるかもしれないし、接点はあってもおかしくない。
評価という点では、昨年だか今年のゴング格闘技「書評の星座」で、別冊宝島の80-90年代前半のプロレス特集に触れ、「あの当時は町山さんが編集してたんだから、面白くて当然」みたいなことを書いていたから、間違いなくリスペクトしているというわけだ。
こっこからは単なる一ブロガーの妄想企画案だが、例の徹底的資料収集と読みこみの手法で、吉田豪が聞き手となり、断片的に語られている町山氏の半生および宝島社での編集術、編集武勇伝、そしてアメリカに旅立って学んだあと、今のオンリーワンの書き手となるまでの経緯をインタビュー式伝記にしてほしいと思うわけさ。
たしか、今検索しても出てこないのだが、町山氏のブログで最近、新聞にごく短期連載した文章がはじめて生い立ちを語ったものになる、と書いてあったのを読んだ記憶がある。そりゃ、ガース&ウェインや「バカの町山」などで知られたスター編集者とはいえ、基本的に編集は黒子だからね。
と、ここで調べたWIKIによると
ともある。一番槍とはならんか。
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だが、まだ吉田流に切り込めば面白いものができると思うし、普通の対談でもいいと思うんですよ。
「もう既に町山氏と吉田氏はこういう仕事を一緒にやってるよ」というのがあったらご容赦&ご教示ください。
おまけ
とある有名人が、早稲田の80年代を回想した一文。町山氏のことも出ている。
むかしあったてんがな(古老聞書断片)
- -
まったくなんちゅう因果かのう。
浅羽(註:浅羽通明)の爺とは大学の同じクラスにおったんじゃあ。
早稲田の法学部の確かドイツ語の21ちゅう
クラスだったように覚えちょるよ。
今を去ること21年前、1977年の春のことじゃったあ。浅羽かの? その頃はほんまにキチガイとしか思えんかった。
語学のクラスの時にしか顔を合わすことはなかったものの、
始まる前に教壇に行き、万歳三唱をしてからクラッカーを
数発炸裂させてあのかんだかい声で高笑いしながら
教室を出てゆくという、ほとんど奇人扱いされている
御仁じゃった。
クラスでも相手にする者はおらんかったんじゃないかな。
ただ、8号館一階のラウンジにある連絡ノートには
頻繁にオカルト系の書き込みをしておっての。
不肖大月ともそのへんで交流があったんじゃ。
そのノートかの? ほっほっほっ、今もわしの実家に
眠っておるわの。浅羽の爺が知ったら仰天するじゃろうて。
水瀬亜浪樹とか、いろいろなペンネームを使うておったのう。
幻想文学会の俊英として暴れまわっていたと聞いておるが、
少し後にはいとうせいこうも法学部におったし、
『別冊宝島』の名物編集者になった町山智弘(ママ)も、
早稲田のSF研のサークルで勇名をはせていたそうな。
高田馬場の今はもうなくなった喫茶店で
宇宙戦隊のコスプレをしながら徹夜で銃撃戦をやっただの、
いやもう、いくつも伝説はあるようじゃがの。は、わしかの?
わしはこれまた今は亡き大隈講堂裏の早稲田劇研に
入学式の翌日から沈没しっぱなしでの。
その意味では久米宏や田中真紀子の後輩っつー
ことになるんじゃろうけど。
わしの二年後に鴻上尚史が第三舞台の旗揚げメンバー
としていたし、、一年後に遊/機械全自動シアターの
白井晃が、その後にも高泉淳子だのがいたもんだし、
数年年上の範囲でも影山泰や久保酎吉なんぞがいたもんだ。
小劇場が異様な熱気をはらんでいた時期だったからのう。
白井も今では味の素のTVCFで広末涼子と活躍するまで
になっちょるが、当時は浪人までして大阪から早稲田に出てきた
ほんまに田舎者じゃったよ。
まあ、なんか知らんが、華やかなもんじゃった。
そのへんの雰囲気を知りたければ、
1990年に演劇ぶっく社が出したムック
『大隈裏1967〜1989』を古本屋ででも探して
読んでみるこったの。希少本だろうから探すのは骨じゃろうが
ま、一読の価値はあるものじゃ。
京大西部講堂とまではいかずとも、東の西部講堂くらいの
妙なパワーは持っていたもんじゃよ、当時の70年代末から
80年代前半にかけての大隈講堂裏っつーのは。ドリアン助川も早稲田の芝居まわりでうろうろしちょったらしいの。
あれは6号館屋上のアトリエにとぐろを巻いとった
また一段とアングラ色の強い地獄の一団に属しとったらしい。
騎馬族長会議とかいったかの(笑)。
そのことを言うと今でもいやな顔をするというから、
よほどトラウマになっとるのじゃろう。サンプラザ中野も、早稲田の政経でパッパラー河合などと
バンドを組んでいて、大隈地下の小講堂のライブで
客席にダイブして失神した河合を救急車で運んだ、なんつー
エピソードも今は昔じゃ。まあまあ、じさまの昔語りとして聞き流してくだされ
(続く)