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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「指紋を発見した男」書評(続き)

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20051101#p3から続きます。
上リンクのように、19世紀、いろんな形で近代化が進む中、犯罪捜査や刑罰の科し方というものも新しい技術や思想が導入されたわけです。その中の一つの思想として「初犯と犯罪常習者にわけ、前者は軽く、後者は重くする」という考え方が出てきた。これも確かに一つの進歩であろう。


しかし、そのためには「Aという男は間違いなくAである」という、同一性の確認が必要になる。警官の記憶や、顔写真一枚では不可能だし、数万のファイルの中からどう見つけるのか。その際に、ベルティニョンという人物が人間の11カ所を測定する方法を編み出し、効果を発揮する(良家のドラ息子が一念発起して社会貢献となる発明をする、この人物の一代記もかなり面白い)。

それと同時期に、このヘンリー・フォールズは指紋に秘められた謎に取り組む。他の研究者(ウィリアム・ハーシェルやゴールトン)と競争をしながら。

ここで、指紋に関してひとつ忘れてはいけないのは、ご存知の通り中国、アジアでは特に拇印が契約書や誓約書に使われていたことだ。ヘンリー・フォールズも、実は明治の日本に医者兼宣教師として来日しており、この伝統にヒントを得たことを明言している。
指紋の数箇所の特徴を組み合わせて分類する方法は漢字の「部首」の発想を元にしたという。


ただし、指紋が本当に各人で、あるいは年数の変化で「絶対に」変わらないかどうかを確認するのは膨大なデータの蓄積が必要で、また現場の慰留指紋から犯罪人を特定するという発想はアジアにも無かった。そして、やっぱり英語で論文を発表しないと結局は認めてもらえないのである。_| ̄|○

前リンクでも引用した小西氏の書評より

南方熊楠が1894年におなじ『ネイチャー』に「拇印制度の起源の古さについて」という公開書簡を載せて、こういう植民地主義的指紋研究論文に反論しているらしい。指紋をサインの代わりに使うのはどうもアジアの発明のようである。中国、インド、日本の例がここでもひかれている。日本の例は大宝律令だ。離婚のための文書に拇印を使う規定があるらしい。

そもそもにしてから、この指紋は植民地支配の道具であった。
インド支配をした英国は、慣習の違いや植民地への反発により、彼らとの契約や各種の登録を無視しようとする広範な被支配民に悩む。その契約、登録のために指紋採取を行政官のハーシェルが思いついたのだという。


さらにあと一人、悪役が登場する。
ダーウィンの縁者にあたるフランシス・ゴールトンはその個人的な性格も、嫉妬深く独占欲が強い男だったが、それ以上に「人間の能力は生まれつき遺伝で決まっている」という、従兄の発見をゆがめた「社会的ダーウィニズム」の元祖的存在であった。


結果的には打ち捨てられた仮説である彼の妄想は、しかし「生まれ持った資質」の証明になりそうな?指紋の研究を進めたのだから歴史の皮肉ではある。
そして、あるインド人の数学的才能により、複雑な指紋を分割し、単純な特徴ごとに分類する方法が定まり、指紋が「捜査の王」となることが確定した。


そして、フォールズの後半生は、そのゴールトンやハーシェルらとの、「だれが真の指紋の発見者か?」という論争に明け暮れることとなる。科学者の功名・先陣争いは、総体としては間違いなく科学を進歩させてきたけれども、やはりむき出しになると何だか困りものだ。


フォールズは、結局その中で敗者となる。
そういう、科学の黎明期に生きた「栄光無き天才たち」のひとりが演じた悲劇的ドラマとしても、面白く読むことが出来るだろう。