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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「へうげもの」に見る俗と美、政治と芸術−−感想

へうげもの」の舞台は戦国時代、主人公は(一応)実在の人物、古田織部である。「織部焼」とはこの人の工夫に端を発するという。
http://www.e-oribe.info/OribeHP/01project/pro03_oribe.html

 古田織部は、1544年、現在の岐阜県本巣郡本巣町に生まれ、信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者として名を馳せました。利休が完成された「侘び」の精神を継承しながら、「織部好み」とよばれる大胆で自由な茶の湯を創りだしたのです。その精神は、今日にも多く残る織部焼に見ることができます。表面に即興的な絵を施した奇妙にゆがんだ茶碗や向付は、当時の日本人の価値観を一変させてしまったばかりではなく、いまもなお見る人の心を驚かせます。
 織部は、日本で初めて陶器産業に大量生産、大量消費の仕組みをもたらしたイノベーターでもありました。また、茶の湯文化に関連する、建築、造園、料理、製紙などのあらゆる職人技術、産業領域にも「織部好み」を波及させ、影響を与えています。
 織部焼はいまでは日本全国の料亭や各家庭にまで普及し、また織部が茶室の造営に発揮した感覚は、今日の日本人の住宅の中に生きています。

漫画の中の織部は現在、信長絶頂時を描いていることもあり、武将としての栄達や武勲の法も夢見ながらも、ついつい茶道具や武具の装飾に目がいってしまう、迷い多き発展途上の趣味人として描かれている。


最初に、この漫画の第一回が登場したときは「物欲男」という売り出し方と相まって「仕事と趣味と出世を風刺した、現代はみ出しサラリーマン物の変形」というだけかと思った。時代を変更しただけの、志低い借景作品かと。
しかし、回を重ねるにつれて途方も無い全体像が、少しずつ少しずつ見えてきた。
(私の買い被りかもしれないけど)


それは、タイトルどおり古今の作家が、自分にも重ね合わせてテーマとしてきた「政治と芸術」の相克−−(いや、相克を言うだけでは一面的だが)−−なんだと思う。


これについて「笑の大学」の時に引っ張り出した自分の文章を、再再引用させてもらう。こんなに再利用に耐えるのは、俺の考えが進歩して無いからじゃないか(笑)

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20041002#p3

【註:「笑の大学」は】笑いが満載の喜劇だが、笑うと同時に考えさせられることも多かった。それは「政治と芸術(文学)」というこれまでも様々な議論を読んできた問題である。



●思いつくまま書かせてもらう。このテーマでよく取り上げられるのが千利休と秀吉の関係である。井上靖が「本覚坊遺文」で芸術の世界に生き、妥協しない利休と、それを理解できずある種のコンプレックスが殺意に変わっていく秀吉という構図で、映画化もされた。


しかし、政治に一家言もつ女流歴史作家・塩野七生は、それらを全く評価しない。彼女が言うには、そうやって権力に食ってかかるのは一流半の芸術家であり「一流の芸術家は、絶対的な世界での自分の価値を確信しているからこそ、平気で権力に膝を屈するのである」(「男の肖像」利休の項。記憶によるので大意)と断言する。

極端といえば極端だが、こういう視点から見直すと権力と芸術の関係、そしてこの劇の見方が変わってくる。



●とすると、芸術と権力(政治)は本来同じ土俵にいて押しあいをしているのではなく、片方は天上、片方は地上にいて、政治は芸術をいかに足掻いても傷つけることができないのだろうか?そうするとこの劇ではそのふるまいとは別に、作家が終止「強者の余裕」をもって検閲官を見下し続けていた、と見ることも出来る。検閲官が最後にその芝居の筋立てに熱中するのは、まさにその勝利だったとも言える。

でも、今回は敢えてこっからもう一歩踏み出してみようか。
というかこの作品が、そもそもここから一歩を踏み出しているんだ。


上の利休をめぐる数々の作品(今回の「へうげもの」にも利休は出てくるんだけど、それとは別物と思ってください)以外・・・「ギャラリーフェイク」などでも扱われているテーマだが、美(或いは「知」)は世俗の権力がどうであろうと、それと別の次元で屹立する。


だからこそ、織部は国や武功以上に「平蜘蛛」の釜に執着するし、首を獲って主君に出しだせば出世疑い無しの謀反武将(荒木村重)をも、茶碗と引き換えに見逃してしまう。


http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/message/megumi/s8.html

「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイの福音書6章29節)

だけど、この作品ではその問題をさらに突破する、
ある仕掛けがある。


一つは織田信長の存在
ここでは、絢爛豪華で気宇壮大な安土桃山文化の象徴として、
美と権力双方を手中にした存在として彼は日本に君臨する。


「美と権力、双方の所有者」ならばメディチ家もそうだろう、曹操もそうだろう、ネロはそう願ってかなわなかったろう。
しかし(この漫画の中での)信長の美というのは、まさにその大津波のような権力、苛烈な性格こそが美の光源。両者は不可分のものとして輝いているのだ。


このあまりにもまぶしすぎる美に、そして権力に、織部はどう向き合うのか。
これが第一のテーマだ。




あと一つは、上に何度も出てきた男である。すなわち織部の茶の師匠、千利休


へうげもの」でも、信長が作った古今に例の無い「浮かぶ要塞」・・・大軍艦団(まさにこれこそ「美と権力が不可分に一体化した」信長の美の象徴だ)に皆が度肝を抜かれ、ちょっと嫌味を言った商人が首をはねられた中(これも「本気で言ったなら撤回するな」という信長美学の故であるところが皮肉だが)で、千利休は「いささか物足りなく思います」と言い放つ。


しかしそこで、「一切を黒く塗ってみては」という、信長以上に信長の美を掴んだ言葉を発することにより、全ての罪や怒りを免れるどころか、美の世界では魔王信長の上に立ってしまう・・・・かくの如き怪物である。

と同時に、この漫画がどうにも只者ではないと私に思わせたのは、千利休vs古田織部の直接対決だった。


謀反者・荒木を見逃すのと引き換えに茶碗の名器を手に入れたという秘密を持つ織部は、利休に招かれた茶会でも当初は警戒し、事によっては利休を切り捨てんとの意気込みで向かった・・・だが雪駄にじり口、そして狭い小宇宙としての茶室などなど、今の茶道に残る数々の斬新な趣向を見せられた織部は全面降伏、自分から茶碗の魅力に負けて主人信長を裏切ったことを告白する。


曲がりなりにもやる気満々の武将をも無垢の馬鹿正直にさせる、利休の茶の奥深さよ・・・


と、いう着地点ならまだまだこっちも「想定の範囲」なのだが、ここからがさらにすごい!
利休は、その茶碗が欲しくて敵方を助けた織部を、「その正直さが茶の心です」と褒め、そして、「自分も欲の塊」と認めた上で、その茶碗を自分が欲しい、譲ってくれと頭を下げるのだ!


美の対照として、上でちょっと「俗」というのを置いた。
あんまり厳密に分けなかったし、実際にどっちでもいいので途中で「権力」というのを対照としたが、ここで「美を追求するあまりに、逆にそれ自体が俗になる。そして、それ自体が美になる」という、幾重にも折り重なった利休の矛盾と逆説が、逆に美しい色彩を見せる。
それに織部は魅せられ、弟子となるのだ。


これだけ矛盾に満ちたというか、悪と善が同居、いや混在・・・いやいやそうじゃないな、それ自体が悪であり、善であり、同じものが美であり醜であるというパーソナリティに私が感じた感動は・・・・・「月下の棋士」の中で主人公に、もはや余命は無いというカルテを見せて「最後に勝って死にたい、後生だ!負けてくれ〜〜〜」と土下座するという、大原名人以来だった。




【あと一つだけ続くが、これはエントリを改める。なので一応終了】