http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2004/12/42.html
40巻が1993年発行。41巻が1998年。今回の42巻が6年ぶりなわけですから、発行自体がビッグニュースになるような作品です。まして40・41巻の最高のクライマックス、宗教的アッチニイッチャッタ?展開のあとを受けての42巻。これは読者期待するでしょ。何がおこるのか。ところが、この巻、いつものガラスの仮面でした。マヤは「いつものように」紫のバラの人にふられて落ち込み、桜小路くんにはげまされて復活してるし、大事故にまきこまれても平気。真澄さまは桜小路くんに嫉妬の炎をメラメラと。亜弓さんは「いつものとおり」の珍特訓。今回は部屋の環境を昔風にして、食事も肉・魚禁、そしてオリンピック並のトランポリン。いつもと同じだ。
(フツーとはいっても「ガラスの仮面」世界でのフツーではありますが)
小生は呉智英氏の「極めて大時代的ながら、圧倒的なドラマ。近代的文学理論などふっとんでしまう面白さ」との絶賛を見て読みはじめたクチですが、文庫本があるところまでしか読んでいない。
そんで、正統派少女漫画というよりはむしろ「梶原一騎イズム」が別のジャンルで開花している−−要は「対決モノ」としてのガラスの仮面、という感想を持っております。
http://blog.livedoor.jp/hardcore_heaven/archives/10889735.htm
41巻ある『ガラスの仮面』で最も自分が好きなのは・・・と言うと、実は芝居の部分ではなく『ふたりの王女』のオーディションでマヤが他の候補者をぶっちぎりで蹴落とすあたりだ。考えるに、例えば『忘れられた荒野』での狼少女役も観客の「本当に狼を見るようだ・・・(ゴクリ)」というセリフの手助けを必要としてしまうのに対し、このオーディションではそのアイディアで文句なく他を圧倒している、マヤのかけね無しの実力が表現されているからなのだと思う
小生が薦めるのは・・・この項あとで続く