1998年に集英社から出版された「司馬遼太郎 アジアへの手紙」という本がある。
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1998/03/26
- メディア: 単行本
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司馬の本格的な書簡集でありまして、極めて筆まめで繊細、そして交友範囲の広い司馬氏の手紙は読み物としても単純に面白いものだ。
小さな比較文化雑誌の経営者を励ましたり、TVディレクターの作品を褒めたり、病気の記者を慰めたりとひとつひとつが文章の手本になり得る。
しかし、その中で気になる文章がある。冒頭に提示し、解説で松本健一(俺の中では「マツケン」って彼なんだが(笑))が解説しているから特に注目した人も多いはずなのだが、話題に一向にならない。
1973年に司馬氏が海寺音潮五郎に宛てた手紙だ。
ベトナムはなかなか面白うございました、あのインドシナ半島に安南山脈が 南北にありまして、その西側がラオス カンボジアで、これはインド文明圏 であります。インド文明というのは人間も社会も大停頓させるものらしく、 一言にいってこの両国民は■■同然のあほうにして、一目で分かります。 シナ文明圏はベトナムのみにて、インド文明とはちがい、思想が哲学や瞑想的 世界にならず、多分に知識的なものにとどまったことが、西欧的なものに転換 したり(日本)あるいは異常事態に対応することに機敏(ベトナム)だったの でしょうか。日本はインド文明そのものにならずにすんでよかったと思います・・・・
■■部分が気になるよね(笑)。この手紙は写真も載っているが、その部分も消されている周到ぶりだ。
松本の評論も、この書簡を軸にして行っている。
この手紙で述べている、ベトナムの旅はもちろん傑作紀行「人間の集団について」(中公文庫)で記されるものだ。手紙の率直さとは比べるべくもないが、インド文明と中国文明の差異についてはかすかに描写されている。
とはいえ、深い知識と広い視野、公平な判断力を持っていたといわれる司馬遼太郎が、なぜゆえにインド(文明)を、蔑視したのか。
これが例の浅羽通明「ナショナリズム」
- 作者: 浅羽通明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/05
- メディア: 新書
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で一章を割いた司馬遼太郎の読み解きにつながる。松本健一にもつながる。
(この項あとで,20日夜にでも)
要はこーいうことです。
司馬遼太郎は、「近代主義」「合理主義」に基づいて日本史を読み解いた。
だから合理主義者としての織田信長、大久保利通、秋山真之らをもって日本のイコンとした。
それは軍事的合理性でもあり、経済的合理性でもある。
インド文明は、(数学は優れているんだけど)どうしても商売というのか、社会を無駄なく機能的にするということを重んじない。むしろ社会に、その非合理性を呑み込むような形を取っているように思える(印象論ですが)。
これもひとつの立派なアジア独自の文化・文明ではあるのだが、あまり西欧の植民地主義に対抗する軸にはなりにくい。だから、司馬遼太郎はあまりインドを愛さなかった。
もっと抽象的で単純なたとえをすると、西洋植民地への反発を覚えたアジアなどの民族は・・・
(1)チクショー、俺たちも軍服を着て西洋の銃と大砲を取り入れて、同じように対抗してやる!
(2)チクショー、俺たちは絶対に伝統を守る。刀と弓矢をさらに磨き、先祖伝来の武勇を見せる!
経済も
(1)俺たちも西洋みたいな会社を作って輸出をばんばんやって、経済を伸ばしてやる!
(2)俺たちの伝統、農業と素朴な暮らしこそ西洋を上回るものだ!うらやましがるな!
のどちらかになりうるわけですね。上のインド文明とシナ文明の相克を、日本に無理に変換させると、西郷隆盛と大久保利通の対立になるといえるかもしれない。
・・・明治国家とイコールであろうとした「官」の大久保利通と、その「官」によって無能とされつつも「官」それじたいを大きく超える、いわば革命幻想そのものだった西郷・・・西郷が抱えている、形とならない革命幻想のようなものは、形とならないがゆえに・・・「翔ぶがごとく」にあっては、明治以後の西郷隆盛は「無能」としてしか描かれない・・・
イザヤ・ベンダサン(山本七平)も、西郷を評して「西郷は政治家でも軍人でもなく、「日本教」の司聖人・・・セント・サイゴーなのである」としていたな。
ついでながら、小林よしのり氏が「マナーとしての反米」を掲げ保守主流派と決別した後、玄洋社と西郷隆盛を称揚したのも論理的必然であるような気がする。そこにいくことで初めて、いわゆる対抗ナショナリズムは具現化しうるからだ。
そして、小林よしのりの玄洋社関係の元ネタは、ほとんど
ここに紹介されていたはずなのである。
- 作者: 松本健一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/09
- メディア: 単行本
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浅羽通明はかく言う。
執筆から30年を経た今、(坂の上の雲を)読み返したとき、いくつかの疑問がうかんでこないだろうか。
一つは、日本を肯定するにあたって援用される価値が、欧米の近代主義にほかならず、司馬がそれをほとんど疑っていないところだ。・・・はたせるかな司馬遼太郎は、1985(昭和60)年、紀行「アメリカ素描」(読売新聞社、1986年)で「私はおそらく近代主義者なのだろう」と語り、「私はアメリカ文明を今世紀唯一の文明として評価する」とまで明言していた・・・。
映画「ラスト・サムライ」の善玉側カツモトはもちろん西郷がモデルなのだが、あの映画で一番不満なのはやはりここ。悪玉・大久保(モデル)側の論理、正義を描けば、ハリウッド流の単純明快さはやや失われるかもしれないけど、もっと深みがあり、繰り返し愛好される名作になりえたと思う。