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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「笑の大学」に大期待。

自分は、映画の情報が断片的にしか入ってこない。
だから、三谷幸喜の傑作演劇「笑の大学」が映画化され、製作を開始した・・という話は聞いていたが、今月末に公開されて、しかも主演が役所広司とイナガキンスキーだったとは報道で初めて知ったのだよ。

SMAPのそれぞれが役者としての力がどの程度あるかは
個人的には分からない。新撰組!は「寺田屋から見よう」と
思ってたら、視聴習慣をつけなかったために結局はずっと
見逃している。せっかくの三谷ドラマなのに。
例の定時制高校を舞台にした三谷ドラマは、香取はそれなりに
はまっていたように思う。

しかし、んなこととは別に、「笑の大学」はそのストーリーだけで
間違いなく傑作になるはずだ。おそらく、どこかに出品されれば
映画賞も受賞するだろう。テーマ的に審査員が好むからね。

以下は、BSで舞台(西村と誰だっけ)が放送されたときの評。

                  演劇評「笑の大学
 筆者が三谷幸喜のファンになったのは映画「十二人の優しい日本人」が公開されてからのことだから、「やっぱり猫が好き」を見ていたというような人の前ではあまり大きなことは言えません。しかし「王様のレストラン」「古畑任三郎」と、今では彼が脚本を書けばそれが一番の売りになるというところまで名声が高まったようだ。

そんな彼の脚本による芝居がこの「笑の大学」である。実をいうとこの前、近くでも公演があったのだが、内容が全くわからなかったので数千円ものチケットを買う勇気がなかったのだ。しかし正月、TVで放送されたものをみて、行かなかったのをえらく後悔させられてしまった。

あらすじ・・・戦争の影が深まる昭和初期、喜劇劇団「笑の大学」の座付作家(脚本家)は新作の検閲官(演ずるは今泉巡査こと・・・誰だっけ?とにかくあのハゲ)に呼ばれる。作家は必至に検閲官のご機嫌をとって、脚本を合格にして貰おうとするが検察官のほうは冷酷に「不適切な部分」の書き直しを命ずる。どうやら彼は、喜劇や笑いに全く興味が無く、それらを軽蔑すらしているらしいのだ。

ロミオとジュリエット」は外国の話だからけしからん、接吻シーンは猥褻だ、警官を「いい役」で登場させよ・・・・検閲官は、芝居そのものを成り立たせなくなるような無理難題を次から次へと吹っかけ、作家のほうは、泣き言をいいながらもそれらの条件を全て呑む。しかし、彼はそれらの制約を逆手にとって、どんどんギャグを練り上げていく。

ロミオとジュリエットの舞台を無理やり日本にする「ギャグ」、接吻しようとするところにいつも邪魔が入る「ギャグ」・・・・そのうちに検閲官は「こんなセリフはどうだろう」「この人物のシーンは余計だ」などと、思想でなく劇の質の点から発言するようになり、いつしか脚本制作は二人の共同作業になっていく・・・・

笑いが満載の喜劇だが、笑うと同時に考えさせられることも多かった。それは「政治と芸術(文学)」というこれまでも様々な議論を読んできた問題である。


●思いつくまま書かせてもらう。このテーマでよく取り上げられるのが千利休と秀吉の関係である。井上靖が「本覚坊遺文」で芸術の世界に生き、妥協しない利休と、それを理解できずある種のコンプレックスが殺意に変わっていく秀吉という構図で、映画化もされた。
しかし、政治に一家言もつ女流歴史作家・塩野七生は、それらを全く評価しない。彼女が言うには、そうやって権力に食ってかかるのは一流半の芸術家であり「一流の芸術家は、絶対的な世界での自分の価値を確信しているからこそ、平気で権力に膝を屈するのである」(「男の肖像」利休の項。記憶によるので大意)と断言する。
極端といえば極端だが、こういう視点から見直すと権力と芸術の関係、そしてこの劇の見方が変わってくる。



●とすると、芸術と権力(政治)は本来同じ土俵にいて押しあいをしているのではなく、片方は天上、片方は地上にいて、政治は芸術をいかに足掻いても傷つけることができないのだろうか?そうするとこの劇ではそのふるまいとは別に、作家が終止「強者の余裕」をもって検閲官を見下し続けていた、と見ることも出来る。検閲官が最後にその芝居の筋立てに熱中するのは、まさにその勝利だったとも言える。


●仮にこの劇にもう一人の作家が登場して、「この脚本は私の命だ、一字一句たりとも書き直さん。もし不許可というならそれで結構、日雇いでも何でもして生活するさ」といった時、観客はどちらを支持するだろうか?


●見ていないが「レニ」というドキュメント映画がある。レニ=リーフェンシュタールというドイツの女流監督の話だ。代表作「意志の勝利」「民族の祭典」。どちらも有名なナチスの宣伝映画である。インタビューで解るように、彼女は典型的ノンポリであり、戦後ドイツのユダヤ人虐殺を聞いたとき大ショックを受けたらしい。
ところが、その彼女が「意志の勝利」でナチスの党大会を撮影するとなると、徹底してアングルや演出に凝りまくり、神秘的なまでの壮麗な党大会と神のごときカリスマを持つヒトラー総統の姿がフィルムに焼き付いてしまうのである。(その会場を再訪すると、「あそこから撮ったのよ」とはしゃぎまわり、反省の色なぞ見せない。)徹底して唯美主義の困ったちゃんである。しかし彼女のその美的感覚ゆえに、同じくナチスの宣伝映画として撮られたベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」では、陸上競技で白人のドイツ選手を破り金メダルを獲ったアメリカの黒人選手の躍動する美を完璧に撮り、それ自体が人種主義への最も優れた反論になってしまうのである。
(その後成功した黒人選手オーエンスは何かの表彰式で、そのとき既にナチ協力者として社会的に抹殺されていた彼女が会場の後ろにいるのを見つけ、「私の人生の恩人を紹介します」と言って彼女を壇上に上げたという)・・・としたら、彼女は、彼女の映画は一体何なのだ?



●「風刺」とか「反骨」とかの価値も根本的に考え直す必要があるかもしれない。いまだに!!「ダウンタウンの笑いには権力への毒がない」とか「たけしの笑いは弱者抑圧の笑いだ」というスカタン佐高信は論外として、逆に「ブラックユーモア」や「「良識」を笑う」といった姿勢を評価し過ぎる危険が、例えば筆者らの世代にはあるかもしれない。
「反権力」「反良識」「ヒューマニズム」「ブラックユーモア」どれもこれもまず笑えるか、感動できるかを優先せにゃいかんと自戒。(例えば「反良識」であってもなくても爆笑問題の漫才は笑えるものね)


小林信彦氏はこれを見たら何と言うか気になる。というのは彼は、戦前・戦時中の映画検閲による表現の変化を一観客として見ており(それを子供心に見破っているのが恐ろしい)、それを「一少年の観た<聖戦>」という本に書いているのだ。戦時中の監督がいかにアメリカ映画に影響を受けつつ、その技術を応用して反米プロパガンダ映画を作っていたかが鋭く分析されている。また、戦時中鬼のような形相のルーズベルトを描いていた漫画家が、終戦後はそのままのタッチで東条を描いたという呆れた事例も載っている。


●逆に、まだ30代の福田和也氏は、戦時中に作家や画家が作ったプロパガンダ作品をもう一度読み直すという仕事をしている。
戦争の反省を風化させない為・・・ではまったくなくて、そこに作品として評価に値するものがないか検証するというのだ(笑)。なんてことを。(「グロテスクな日本語」洋泉社など)彼もこの芝居についての感想を聞きたい一人だ。他に差別語規制問題で断筆宣言した筒井康隆、故福田恒存にも意見を聞いてみたい。


三谷幸喜について。彼はキネマ旬報で今、和田誠と映画対談「それはまた別の話」を連載しているがこれがすんごく面白い。プロの目から名作の脚本のポイントやミスを指摘しあうんだから面白くならないはずがない。特に「ダイハード」の分析は岡田斗司夫の「オタク学入門」と比較して読んでみんしゃい。そろそろ単行本になるんじゃないかな。


●三谷は登場人物が数人だけ、一室で物語が進行するというシチュエーションが好きなんだそう。「12人の優しい」・・・も「猫がすき」もそうだね。今度の新作は、松本幸四郎(ギャルソン役良かったすね)・染之介親子がやる二人芝居のための書き下ろし!引退した老俳優の伝記を書くため、取材記者が訪れインタビューをするという設定だ。見に行きたいなあ。
しかし三谷、「今度締切りに間に合わなかったら(脚本の遅いのは有名)筆を折る」と宣言しちまった・・・やめとけよ(笑)。先輩の井上ひさしを見習って堂々と遅らせろ(笑)。

たぶん、このブログの映画談義は「華氏911」から「笑の大学」に以後中心が移っていくと思います(笑)。ここからいくつか展開させる話があるから。


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あとひとつだけ追加。
この片方の主役、「取調室に呼ばれた人」の演技にはすごくリアリティが出てくるんじゃないのか?(爆笑)