<※下に、追記をしていく方式をとっています>
TBを頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091205/p4
【付記】その一段下も関連エントリでした
これは最近、ようやく使えるようになってきたブックマークについてのTBです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091205/p1
「自転車にかぎと一緒にするのか」と言われますが
当然、実際にさまざまな犯罪で、大きな被害に遭われた方の個別の苦しみは、そもそもどこまで行ってもそれぞれに個別のもの、であり、他のどれとも比較にはならないでしょう。その点を強調した上で、なお
1・犯罪被害の問題
と
2−A:犯罪被害をふせぐ行動の推奨 −B:または犯罪被害に遭い易い行動をいさめる主張 (AとBはまた別ものです)
の関係を論じるうえで、「自転車の鍵」は十分同一範疇であると考えます。
実際に自転車に乗っているとわかるのですが、降りるたびに鍵をがしゃこんとやって、その鍵を持ち歩いていくというのは相当に面倒なのです。
さらには「やっぱり人通りの少ないところに追いとくのは・・・」
「旅先で泊まるから、駅の駐輪場に2日間放置するのは不安だな」
という、自転車窃盗の犯罪をこちらが予想することにより、本来やりたい行動を制限されることも多い。わたしの自由は、権利は・・・どこかにいるかもしれないし、いないかもしれない潜在的な窃盗者予備軍?によって制限されていたのだ。駅にバスやタクシーで行かざるをえないことも。
これを「あんたの「自由」はどれほど制約されるってんだ」「たかだか自転車に鍵・・・」というなかれ。いちいち上のようなことを気にしたくねーよ、こんな心配や警戒はメンドーだよ、というのが何と比べると小さいか大きいか。誰が判断するのか。なかなか難しい問題です。
自転車が盗まれたときのショックだって、思い入れの深さや年齢によって変わってくるだろう。
人生が変わるほどの大ショックや社会・人間不信に陥る人もいるかも。
逆に、慣れてくると面倒くささが高じて「ほんの数分の買い物だから」と、かぎをせずに駐輪することもままありました。
で、かぎをしないで駐輪し盗まれた場合、
「(X)私は被害者であり、責任はない。 盗んだ犯人が悪いのであり、本来は鍵をかけなくてもだれもが自転車を盗まないのが当然なのである。
『鍵をきちんとかけないといけない』というのは被害者をさらに苦しめる『セカンド窃盗』ではないか!!」
と主張するなら、それはそれで極端であろう、というのがわたしの考えであります。
あ、話はさらに進んで、はてな村では「かぎをかけろというなら、俺の自転車の半径10mに近づくやつは全員有無をいわせずぶん殴っていいんだな?だれもが盗むかもしれないってことなんだから。それはよくないというなら、鍵をかけろとも言うな。そういう比喩だよ」というふうに議論が発展してるか。
ついでに言うと
「人間、だれもがみな、労せずして貴重品を手に入れたいという欲望はある。みんな、潜在的な泥棒なんだよ(だから鍵はちゃんとね)」
という議論の是非もあるか。
ただ、リンク先の本文・コメント欄から推測するに、これらは見てみると
「程度の問題」に収斂される話ではあります。
「自転車に鍵」程度のはなしなのか!
「泥棒に入られたくなければオートロック、門番付きのマンションに住め」とか「セコムしてますか?」とか言われたらどう思うのか、
「通り魔に殺されたくなければ防弾チョッキ着ていろ」とか言われたらどう思うのか。
ここでは上の、フィクション(仮定)として書いた(X)論、「本来は鍵をかけなくても自転車は盗まれるべきではなく、無施錠の批判はセカンド窃盗・・・」的な主張は採用されないようです。
上の自転車に関する議論は、不愉快に感じられたかたもおられれば心情的にはまことに申し訳ないのですが、下のことを確認できたという点では価値がありましょう。
上に挙げた<1と2>の関係についての共通認識
「犯罪被害をふせぐためにはXXXXを避けるべきだ、XXXしよう」
という主張は、<とりあえず それ自体が問題ではない >・・・・ここ重要です
とすると、あとは
「程度の問題」です。
「自転車の鍵程度」の問題なら、リンク先の文章から類推するに、「自転車を盗まれるリスクを減らすためには、面倒でも鍵をしなさい」という議論はなりたつ。これは推理だが「その自転車泥棒がとうぜん一番悪いんだけど、あなたも5分程度の買い物だからって鍵をしないでいたのは良くなかったね」てな議論も、けしからん偏見に満ちた暴論だとは言われないのではないか。
で、わたしも「通り魔に殺されたくなければ防弾チョッキ着ていろ」というのは極論だと思います。
議論の枠組みが同じであることは認めます。その中で、「程度問題として、そこまですることはないでしょう」という判断として、ですが。
オートロックについては「用心のためにそれをするのもアリですね。それゆえの不便もあるでしょうが、安全を優先してそういうことを訴える人がいるのも主張として認めます」かな。
それでは『「犯罪被害をふせぐためにはXXXXを避けるべきだ、XXXしよう」という議論それ自体は成り立つが、程度を超えると極論になる』という前提をみんなで共有した上で、それは行き過ぎ、いや常識の範囲だという議論をしようじゃありませんか。夜道も服装も鍵も、セコムも防弾チョッキも含めて。
何を当たり前の、というなかれ。
けっこうみんな、上の太字部分をスルーしてたと思いますよ。それに議論の質がまるで違うのではなく、おそらくは「程度の水準」について合意がないという話なのですから。
逆にTB先の筆者にうかがいたいのですが
「XX(犯罪被害)を防ぐためにはXXをすべきだ」「XXXをしなかったのは被害者に過失があるともいえる」という議論が認められる犯罪被害には何があると考えますか?
自転車窃盗と施錠に関しては合意したとして、それ以外では。
【追記(たぶん7日)】
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p1
でも再論とTBを頂いております。
興味深かったのは
自分は24時間デフコン1で生きてるつもりか?
というくだり。私は上に書いたとおり、無施錠買い物だってやっているぐらいで、油断と隙だらけの日々です。
「自分は毎日デフコン1で生きているのか?」
というのは、自転車の施錠無施錠や窃盗の問題などとまさに「同一カテゴリー」です。
そしてまさに「程度の問題」です。
なるほど、やはり程度の問題に収斂されていくんだよな・・・という感をさらに強くしました。
被害の深刻さでいえば
記憶で語るので申し訳ないが、数年前、突発的な単独犯によるハイジャック事件があったとき、「きちんと手荷物検査や搭乗手続き体制を充実させていれば防げたはずだ。空港・航空関係者の責任も大きい」というふうにそちらに反省を促す議論もたしかにあったと思う(あったよね?)。
「彼らはハイジャック犯に被害を受けた被害者じゃないか! 本来はだれもがハイジャックをしないでいるべきだし、ハイジャック犯がいない社会をつくるべきなのに、なぜ検査やチェックが不十分だと被害者側を批判するんだ」という弁護はなかった・・・ような気がする。
個人じゃなく組織の批判ならいいんだ、とか
第三者の安全を確保する責任に限定しての批判だ、とか
これを特別扱いするレトリックとロジックはいくつか
考え付かないでもないが、皆さんはいかがでしょうか。
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【8日追記】「空き巣」「強盗」に絡めての防犯・自衛呼び掛けについて
リンク先の7日ページは、TBのひとつ下も派生エントリで、こちらは同じ日でもエントリごとにコメント欄が分かれている形式です。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p2
そのコメント欄の中で、ブログ主の返信にこういう記述があります。
文字通りの意味での「鍵かけ」なら、犠牲者非難に結びつきやすい性犯罪をターゲットにしなくても空き巣や強盗にかこつけて呼びかければいいじゃないですか。
強盗被害や空き巣窃盗の被害者は、どの程度まで犠牲者非難を免れるのか、一般的な自衛や防犯の呼び掛けを「自分への非難」だと受け取り精神的に動揺するおそれは少ないものなのか・・・これはなかなか想像の及ぶところではないですが
「犯罪被害をふせぐためにはXXXXを避けるべきだ、XXXしよう」という主張は、<とりあえず それ自体が問題ではない >
という最初の私の考えと重なるな、と大いに意を強くした次第。
当然、論者は上に引用したような理由を挙げ、性犯罪の際の「呼び掛け」は否定しており、そこは遺憾ながら意見が異なるところです。
ただし、「空き巣や強盗にかこつけての(かぎ掛け)呼び掛け」ならいい、という見解は重要だと思います。推測ながら、たぶん自転車窃盗も入るのかな。
「同一カテゴリーの中での、程度の問題」として考えるとやはりこれらはすっきりとわかるでしょう。そして程度の問題は、個々人の受け取りに差があってもおかしくない性質のものです。
たとえば『強盗に遭った被害者は(も)、大変な精神的恐怖とショックを受けており「強盗被害を防ぐためにそれぞれ注意しよう」という呼びかけを、「お前が愚かだから強盗被害にあったんだ」と受け取る(恐れがある)!そもそもこちらの警戒の有無に関係なく、強盗されない社会こそあるべき姿ではないか!』という批判をする人がいるかもしれない。それは何度も繰り返すが<程度>の議論であって、本質的な違いは無いと考えます。さらに「程度」が極端になると、もっとラディカルに「鍵をかけない自由だってある」となるかも。
【10日追記】「同一カテゴリー」の認識が「男が女に説教」の構図を防ぐ &「既に知ってる」論について
■「男が女に」説教? それを防ぐためにも・・・
id:md2takさんのコメント(家のマーク)から飛べるリンク先にて
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p2#c1260301809
どうやら「男には女に説教する権利がある」という発想が根底にある
ここで自転車の鍵も、リンク先の書き手が「それにかこつけて呼び掛ければいい」とした強盗・空き巣も、そして性犯罪も、「犯罪被害をふせぐためにはXXXXを避けるべきだ、XXXしよう」という議論」の対象として同一カテゴリーに属するんだ」という認識が生きてくる。「わがはい男が女に、性犯罪に注意せよと説教をかましてやるワイ・・・」という人には「貴方は(無施錠で)自転車窃盗の被害に遭う人や、防犯措置がいたらず・または防犯措置をできるかぎりしたに関わらず空き巣に遭う人が、みな女性だとでも思っているのですか? どちらも同じカテゴリーの話じゃないですか」といえば、そういう男尊女卑主義者も、たちまちぎゃふんです。
■「分かっている」「既にやってる」「言われるまでも無い」論
という反応を散見しますが、これは少し考えると分かるんですが、別の方向から「内容自体に間違いは無い」と認定されているのと同様なんですよね。間違っている主張を間違っているまま「分かってる」「言われるまでも無い」と返す人はいないでしょうから。