など「地を這う難破船」「地下生活者の手遊び」その他はてなの人気ブログ、ホットエントリなどで話題になっていた最近の、性的なゲーム(婦女暴行を扱う)の一部が国際問題になっているという話で
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090606
から、作家・佐藤亜紀氏が何度か話題にしていることを知った。
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/05/2009514.html
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/05/2009519.html
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/05/2009525.html
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/post-0557.html
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/200965.html
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/200967.html
私はゲームに関しては、正直「感情」や「伝統的な慣習」によって考えれば、規制されても仕方ないんじゃないかな、という思いはあるのだが、ただその肯定論を構築する「ロジック」はたいへん弱くもろく、反論を浴びれば崩れるようものであることを認めざるを得ないのでジレンマではある。
あと、これは上の議論に出ているが少し前の「ムハンマド風刺画」事件との類似点もある(加えて言えば映画「靖国」も)。
風刺画事件は、このブログを「ムハンマド」で検索してもらうと分かるが、ずっとはてなの中では長く追い続けてきたので気になる部分もある。
上の佐藤氏の主張は回を追うごとに補足もされているので、当初よりは分かりやすく、誤解を浴びそうな部分のフォローもされているが、それでもちょっと疑問に感じたことを箇条書きしていこう。(註:書いてみると、箇条書きにできませんでした(笑))
…陵辱ゲーム規制への動きをラシュディの『悪魔の詩』問題と単純に結び付けて、だから表現の自由を守る側に付けと言われても、私としては、問題を取り違えてないか、と言わざるを得ない――『悪魔の詩』は反ムスリムのプロパガンダではない。イスラム世界に根を持ちながらヨーロッパ世界で暮す人間の苦悶についての小説であり、読みようによっては困難な信仰の書であり、少なくともカトリックについて同じようなことを同じように書けばそう読まれる可能性のあった書物である。
今回の件で、表現者として表現の自由の側に立て、と説得する材料に使うとしたら、より適切なのは『悪魔の詩』ではなく、例の『ムハンマドのターバン』であっただろう。たかが信仰を風刺したくらいで大仰な、所詮は絵に描いたものにすぎず誰も実際には傷付けられていないのだから、ムスリムも多少の不快は我慢すべきだ、表現の自由は飽くまで守られなければならない――と言う風に、一般には取られているようだから。ところで私の経験はそうは言わない。『ムハンマドのターバン』は悪質極まる反ムスリム・プロパガンダであり、表現の自由を理由にこのカリカチュアを擁護することは、現実に存在する移民差別(略)を助長することに他ならない。可能であるならば、デンマークの当局は火急かつ速やかに、当該新聞に警告を発するべきであった。
ただ、イスラムに詳しいアヤトラ・ホメイニさんとイラン政府の見たてはそうではなく「悪魔の詩は反ムスリムのプロパガンダだ」と認定したわけで。そりゃ、高名な作家である佐藤さんが「私は悪魔の詩を困難な信仰の書、人間の苦悶についての小説と読んだ」というのは相応の理屈があるだろうが、そうでない人もいると。
このとき、どう判断すべきかの方法はない。文学度Aなら免除、文学度Dなら発禁・・・とどこかの誰かが、「白い服の男」が決めるわけにもいかない。
90年代初頭、ゲームではなく漫画で性規制(暴力表現・差別表現含む)が話題になったとき、呉智英氏は「まずは井原西鶴「好色一代男」(覗きや、脅迫による強姦未遂などが批判なく描かれているそうだ)、シェイクスピア「ベニスの商人」(ユダヤ人差別。いうまでもない)の禁止を」と語っていた。おなじみの問題で、「男流文学論」での名作評価や石原慎太郎の「太陽の季節」や「完全なる遊戯」への批判もそうだといえる。
今思い出したが、以前も一度、ここで佐藤氏の「風刺画」問題を引用して書いたことがあった。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20060208#p7
ここでは佐藤氏は、こういう論を展開している。
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/02/200526.html
そんなにムハンマドを描きたいのか? 描かなきゃならない理由でもあるのか? 切実な理由があって描いた人にファットワが下されたので抗議、というのでもなければ(念のためお断りしておくが、「悪魔の詩」については私は断固ラシュディ支持である。ラシュディがまた西側文化人の尻馬に乗って下らないことを言い出さないといいのだが)、こんなカリカチュアはまるで意味を為さない。
ただ、表現に関して「君には書く切実な理由があった」「君は面白半分に書いただけだろう」という理由で、規制があがったり下がったりが果たして望ましいか。とくに風刺なんて、「社会批判の意味を込めたものと、単に言葉遊びや面白半分で書かれたものを比較して、前者が常に優れているわけではない」と筒井康隆が怒っていた。もちろん個々人の評価はべつだ。
ただ、ラシュディがファトワによる暗殺指令から守られるべきなのは、「彼の小説が真摯な悩みを描いた切実なものだから」か?「表現・言論の自由はひとしなみに守られればいけないから」か? それはたぶん後者なのだと思う。
政治的解決
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/200965.html
ファトワという最悪の事態を招き、ムスリム対ヨーロッパというどちらも後に引けない状況を(しかもこれは国外との対立であるばかりか、国内に抱え込むことになる対立でもあります)招かないためにはどうすればよかったのか、という話です・・・(略)・・・、この時、イギリスの当局が実際ラシュディを冒涜罪で法廷に立たせることに決めていたら、そのあとのようなことは起らなかっただろう、つまりはちょっとした政治的な判断で、・・・(略)・・・イギリスの社会はムスリムを尊重しているというポーズを取ることが出来、ムスリムは国元の世論に訴えずに済み・・・、ロンドンの地下鉄テロは起らずに済んだかもしれない、と言っている訳です。
こうなればテロがおこらなかったかどうかはIfの世界ですが、そうだったかもしれない。
ただ、どんな不自由な、言論の規制がある社会でも、あらかじめ遠慮して、規制をおもんぱかって、根回しと遠慮をしたうえで表現し、それに対して政治がなにやら手を打てば、なんらかの形での表現はできるでしょう(三谷幸喜「笑の大学」!)。問題はそれを「表現の自由」と呼べるかで。
ゲイ差別だって「それを公言せず、ひそかに隠していれば、世間様はお目こぼししてくれるわよ」という解決方法が数十年前には一般的だった。
建前オンリーのリベラルな躊躇(略)が双方にとって何と高く付いたことか、という話だとお考え下さい。これは政治の問題です
「ゲイは何か悪いことか?、それで不利益が生じるとしたら社会が悪いんで、隠せなんていうのは抑圧じゃないかしら」という考えも、リアリストからは「リベラルな躊躇」で「高くつく」とばっさりやられるかもしれない。
最近の例で別のアナロジーをすれば、中国人監督の「靖国」も、監督が問題になった時点で、「国の補助金は映画の収益から返還しようと思います」「無許可だと怒っておられる靖国神社の場面や刀匠の場面については、まことに行き違いがあったようでお詫びしたい。だがなにとぞなにとぞ、お許しを得てカットはご勘弁をっ」と表明していれば、上映中止館があんなに出なかったかもしれない。
さらに遡ると、80年代、植民地支配を正当化するインタビューを当時の藤尾正行文部大臣が行い、それが文芸春秋に掲載されると知った後藤田正晴官房長官はどうしたか。文春の編集部に直接電話し、掲載を見合わせるよう圧力をかけたのだ。
文春はそれを跳ね除け、逆に抗議文を送ったのだが、日韓のトラブルを丸く収めるには、この圧力が成功したほうがよかったのかもしれない・・・だがそれでいいか、やっぱりまずい。
あ、というか分かりやすく、さらに極端な例として挙げられるのは「レイプを避けるため、女性の夜道の一人歩きは控えよ」という話だ。「どこを歩こうと、性的犯罪はするほうが悪い。それで女性が行動を制限されるのは本末転倒」というのを”リベラルな正論”。「そんなことをいっても夜の一人歩きは性犯罪被害の可能性が高まるよ。それを避ければリスクが減るよ」というのは”政治”と考えるとわかる。
「ラシュディも英国政府が”冒涜罪”で裁いていたら、ムスリムの怒りも収まっただろうにね」という話との差異や類似点は、考え得る余地があるのではないか。
レイプゲーム好きは親が撃ち殺せ?
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/05/2009514.html
(※強姦ゲームを)やってることがバレた後でなお同じマンションに住む隣のおねえさんやおばさんから普通の近所付き合いをして貰えると思ってるのか? 実の息子でもたたき出したいと思う親はいる筈だぞ。立派な家父長なら裏の窪地に連れ出して射殺するだろう。一家の恥だ。そういうものなんだから、やるならそういう覚悟でやればいい。
これは佐藤氏の本気の主張ではないと推測する、「それぐらい私はこういうゲームが嫌いだ」というレトリックなのだろう。だが、佐藤さんの高名な作家が「子供がけしからんゲームをやっていたら親は撃ち殺せ」とオオヤケの文章で書いたら「暴力はしてもいいんだ」「親は子供を暴力で支配、処断していいんだ」という社会風潮を増幅させ、結果的にそういう暴力を増すのではないか?・・・いわゆる「社会的差別だ、ヘイトスピーチだ」と批判されるのではないか。
だが安心してください。
私はあなたのこの文章を、この言論を守ろうではないか。
実際に自分のお子さんを射殺したので無い限り、佐藤さんが「立派な家父長なら裏の窪地に連れ出して射殺する」と暴力・殺人肯定論を書いても、それは許されるべきだと主張する。
ただ、それは文学性の有無や「切実さ」「真摯さ」を考慮したうえで、ある基準や水準に合致するからでは守るのではない。為念。
= = = = = = = = 少々追加(午後8:30ごろ)= = = = = = =
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090604/1244096864
のコメント欄における、未確認情報。
t 2009/06/05 18:30 佐藤さんに「男の子牧場」についての感想もお願いしたい。
それから佐藤さんが大好きなGTAやサウスパークとエロゲーに果してどれだけの違いがあるのか?
まず、「佐藤さんがサウスパークが大好き」というこのの真偽自体を私はよく知らず、コメント欄の一言を信じていいのかは分からない状態であると断っておくけど、検索すると ハヤカワミステリマガジン の連載原稿で、昨年あたり言及があったもようだ。
ただ、その原稿を読めば納得するのかもしれないが、ちょっと意外に感じるのは、上のリンクで引用した
・紋切型
・まだそんなことをやって、しかも面白いと思っているのか、
・あんたには関係のない話だろう?
・描かなきゃならない理由でもあるのか?
・こんなカリカチュアはまるで意味を為さない。
・法的に言って、笑いものにする権利はある(略)。だが、他人の信仰心を尊重する程度の節度は、この民族宗教ぐちゃまらの御時世には是非とも必要ではないか。
・なるほどそういう文化もあるんだねと尊重してあげることが、多文化混交の現状にあっては必要だろう。何
こういう見解に、固有名詞は違えど、真っ向から挑戦しているのが「サウスパーク」なんじゃないか?と、よく見た上でいうのではないが話を聞いたりYOUTUBEで断片を見たりした印象では、そう感じているのだが。
ウィキペディアの「サウスパーク」より
番組内容の過激さもあり、日本では放送されなかった回もある。欠番になったタイトルは、
第3シーズン・第10話 CHINPOKO MON(チンポコモン)
日本天皇やポケットモンスターをチンポコモンと皮肉った為。
第4シーズン・第10話 Do The Handicapped Go To Hell?(ティミーは地獄行き?)
第4シーズン・第11話 Probably(地獄の三角関係)
第10話は障害者を扱った内容のため自粛。第11話はその続きになる挿話が重要視され混乱を避けるため。
http://cinematoday.jp/page/N0008052
アイザック・ヘイズ、宗教問題で「サウスパーク」を降板
人気風刺アニメ「サウスパーク」でシェフの声を担当しているアイザック・ヘイズが契約を解除し、降板を希望していることを発表した。理由は、この番組の宗教の捉え方に耐えられなくなったからだと言う。ソウルシンガーのヘイズは、サイエントロジーの信者。「世の中には風刺も必要だが、ある一線を越えると、風刺は不寛容と偏見に変わる」とコメント。一方、「サウスパーク」のクリエイターの一人マット・ストーンは、ヘイズは宗教問題で降板するのではなく、サイエントロジーを風刺したから降板するのだと反論している。「キリスト教などを皮肉った時には問題なく仕事をしたのに、サイエントロジーのエピソードをやった途端気に入らないと言い出した。自分の宗教はほかとは別だという態度こそ、不寛容と偏見だ」とストーン。
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1205837350/
同性愛、暴力、宗教への不寛容をネタにした「サウスパーク」などのアニメーション番組を放送したことで、ロシアの大人向けアニメ・チャンネルが、ここ2週間で2度目となる大批判を浴びている。
キリスト教とイスラム教の団体は、モスクワを拠点とするテレビ局2X2に閉業を申請。
この反対運動を先導しているのは、プロテスタント教会の傘下にあるConsultative Council of the Heads of the Protestant Churches in Russiaで、彼らはロシアのYury Chaika検事に調停を求めている。
この動きにすぐさま呼応したのは、イスラム教団体Nizhny Novgorodの会長であるUmar-Khazrat Idrisov氏。
ロシアにいるすべてのイスラム教徒たちに向け、「プロテスタントに続け」と呼びかけ、テレビの規制団体Federal Culture and Cinematography Agencyに対し、2X2からライセンスを剥奪するよう求めた
むろん、ある部分での肯定が、全ての評価であるとは限らない。佐藤氏がサウスパークを評価しているとしたら、他の宗教風刺への見解と整合性が取れないのでは?というのは、断定を避けて保留した、ひとつの仮説としておきたい。その部分については激しい嫌悪を感じているのかもしれないし、ありはラシュディ的な苦悩と切実さが生み出した風刺だとみなしているのかもしれないし。
残りは、ほんの小ネタ
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/post-0557.html
たとえばハッテンバに迷い込んだら男だって強姦される(されないって。彼らには君らと違って分別がある)、
「彼ら」とはどんなカテゴリーなのかは少々不明だが、もし男性同性愛者のことをいうなら、私は一般論としてその集団全体を「されない」「分別がある」と断言するのは事実とは離れているのではないかという気がする。男性同性愛者の中にも、暴力的に性的欲望を満たそうとする人もいる(おそらく少数だが)。しない人もいる。欲望は抱きつつも、フィクションと現実を分けている人もいる・・・そういう人がそれぞれいる。ヘテロセクシュアルの集団と同様に!・・・という推測のほうが、より事実に近いかと思うのですが。
まあその集団には「いない」、その集団は「分別がある」と断言するなら、その根拠をあとで拝聴したい。
お前らの夢に見る古き良き家父長制の下でも、お前らみたいなのはぶち殺されるんだよ、
「おまえら」の範囲がこれまた分からないのだが、今回のゲーム規制に反対する人(id;sk-44さんは含むのかどうか)をいうのなら、私がざっとみた範囲では「家父長制が好きなのだろう」と感じさせられる文章は無かった気がする。このゲームの規制に反対するようなやつは男尊女卑だから四捨五入すれば家父長制好きに分類できる、ということなのかな?それとも私の目に触れなかっただけで「ゲーム規制復活、家父長制強化を!」と訴えるブログがあったのかもしれない
ちょと時間の制約があり、補足や推敲したい部分もあったのだがこれでとりあえず一通り。
あとで時間が取れたら多少の変更、追加できるかも。
(※夜の20時-20時30分ごろ、誤字修正を含め一部変更しました)