INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

青木カルバン裁定、再び週末にズンドコもつれ込む。これぞ「笹原ダメ魔術」。

ぶっちゃけていうと、今日ネタないのよ、格闘技の。
いやホントは二つばかりあるんだけど、いささか長文になりそうで今疲れてるのと、少し通好みで来訪者が少なそうなのね。んで考えたら「あ!『ズンドコPRIDEゲノム』ことDREAM、相変わらず裁定発表して無いじゃん!」と思い出したのでまたネタにしようと(笑)。楽だしさ。
こういう点では、ずっともつれ込んでくれてれば困った時にネタにできる。


しっかし連中、一体なにやってんのかね。谷川さんとか榊原さんとかだったらもう決着つけてるんじゃなかろうか。高田さんだったら「流れの中ですから」の一言で終了。
で、いま作った新造語が「谷川黒魔術」ならぬ「笹原ダメ魔術」でした。


んなこと言ってる間に青木真也ブログ(kamiproハンド)が。。ああ
余談ながら、このブログは新情報も出なけりゃ文章も短い上につまらない.

他は面白く読んでいる同サイトのコンテンツの中でもやる気のなさを感じるコーナーだが、今回は珍しく情報っぽいことが書いてある。

俺のケガのこと、試合のことの公式発表が無いから、いろいろと困惑させている(略)
まあ俺の中でそこらへんはもう出てんだけど、(略)公式発表までは(略)。

大人の都合はよく分からんけど、もう少し待ってね

なんと!「大人の都合?」
 僕はてっきり純粋に、ルール解釈と映像で見ての判断が技術的に難しいから裁定が長引いているのだとばかり思っていました(日付を三日前に戻したい…)

「靖国」上映中止問題、実務的に解決しよう・・・車載拡声器を全面禁止したら?(その他)

靖国」上映禁止問題。昨日から書いているが、昨日のエントリの「時系列」の部分で、少し実もふたも無いとこから、即物的な解決策を考えよう。


その前に「稲田朋美」と書いておくと関心のある人が
読んでくれるので無理やり入れておく(笑)



さて本題。


単純である。
なぜ映画館が上映を中止するか。おそらくまっとうな批判や抗議に目からうろこがおち、反省改心いたしましたということではなく、街宣車に代表される、論理や説得力でなく単純に「うるさい」「迷惑」という力に対抗しにくいから、ということが挙げられるだろう。


なぜ右翼は街宣車を使うのか。
(1)それは相手が「煩い」とか「やかましい」とか「怖い」と感じてるだけだとしても、外形的には「私たちは彼らへの『適切な批判』を、言論という形で皆さんや相手に訴えているのだ」「普通のデモみたいなもんです」「要求を受け入れた(例えば上映中止した)のは、私たちの訴えに納得してくれたのだろう」と主張できるからだ。


(2)あと物理的に、騒音という武器は銃刀法やら凶器準備集合罪やらにひっかからない、そして建物に立てこもった相手にも遠く届く、日本ではめずらしい使い勝手のいい武器だからだ。

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鈴木邦男氏が−−相変わらず論理は雑駁だが誠実に考える人だ−−こううことを書いている。
http://kunyon.com/shucho/index.html

・・・街宣車を〈武器〉として使うことには反対だ。
 日教組の大会が潰された。映画上映が中止になった。これは右翼の〈思想〉が伝わり、〈思想〉に納得してやめたのではない。右翼はうるさい。何をやるか分からない。お客の迷惑になる…という理由でやめたのだ。
私も推薦文を書いた 逆の面から言うと、それだけ街宣車は〈武器〉としては強力だし、効果が大きいのだ。〈思想〉を訴えても、なかなか伝わらないが、大音量で押しかけたら、皆、震え上がる。恐がる。〈武器〉としては強力だ。だから、皆、使いたがる。

刀狩りの時代から、武器を取り上げるのこそ一番のかなめだ。


俺もそこで、相当乱暴に細部を詰めないまま言ってしまうが、とりあえず、いわゆる右翼の街宣車的なもので、一番の武器・・・つまりスピーカーを取り上げてみてはどうか。車にいわゆるメガホンのスピーカーをつけること、そこから音を流すことを基本的に禁止する。


これは映画館の立場で想像する話だが、他の抗議(いやがらせ)が残っても、とりあえず街宣車のスピーカーから流れる音と声がなければ、少なくとも上映を辞めようとまでは思わなかったんじゃなかろうか。


もちろんいろいろ問題はある。カーステレオを大音量で流すのと同じような形では?車がなければ歩いてスピーカー(ハンドメガホン)で街宣するのでは?

いろいろありますが、まあこのへんは技術的に対応できるでしょう。

選挙は?これはまあ今でもやっているように、そういう人には逆に特別に、彼らだけに許可を与えればいい。


そしてさらに、こんな疑問もあるだろう。
「ちり紙交換」「たけやさおだけ」「いよいよ来週この町に最強レスラーたちがやってくる!」「新台設置、大開放で新装開店!」

こういう罪の無い生活音、

そして例えばイラク反戦とか格差是正を訴えるサウンドデモ…たとえば拉致問題解決を目指す家族会の街頭での訴えも?キリストへの帰依を進める説法も?
それも全部、車からスピーカーで訴えたらアウトか?

うん、それらを含めてもだ。これも右翼と同様、徒歩でメガホンを使うならいいとしてもいい。(それでもまだダメなら車だろうと徒歩だろうとメガホンを公共の場では使えないとしてもいい)


すべてはリスクとベネフィットの相関であり、逆に言えば社会がどれぐらいの犠牲を払って、右翼の街宣車というものを排除したいかということだ。

そして結局、映画館もホテルも、思想がどうのこうのというより「騒音がうるさい」という即物的な部分しか気にしてないことが、おそらくもしこれが実現すれば分かると思う。


「話し合い」「要望・要求」のルールは受け手側が一方的に設定せよ

あと、上映中止を求める右翼が、映画館経営陣に「話し合い」を要求する例もすでにあると聞く。
で、ここで映画館側にやってほしいのは、そりゃ映画館へのご意見を聞くことは必要な場合もあると思うが・・・たとえば「上映中止や上映延期の要望は全てメールのみでお寄せ下さい。面会要求はあらかじめお断りします」と宣言することだ。複数の上映館が一斉に宣言してもいい。

直接会うことによる威圧感というのも、相手がもし主観的には紳士的に話し合いをしたと考えてももあるだろう。
しかし、面会やら面談、話し合いというのも相手が要望するなら、そのルールの設定をまずは手放さないことだ。


そして、それは例えば”反動映画”たる「プライド 真実の瞬間」の上映に反対する申し入れ
(※ http://www.ask.ne.jp/~jcin/newsjp/9805/0518.txt )
なんかに対してもか。そうだ。そういうのもまとめて「ご要望はメールのみでお願いします」です。四角四面に、どっちがどっちか知らないが、よき上映中止要望も理不尽な上映中止要望もまとめて処理する。誠実に要望者と話し合う場なんかは設定しない。

これまたリスクとベネフィットの兼ね合いだ。
こういう態度を社会が許容すれば、右翼の嫌がらせに対する映画館の耐性は間違いなく上がる。


・・・これって、すでに伊丹十三が映画「ミンボーの女」で描いたことの応用編じゃん。そーなんだよ。

実はまさに今、NHK衛星第二

衛星映画劇場 ミンボーの女 1992年・日本
4月4日(金) 午前0:42〜2:46 (3日深夜)

をやってるんだ。一日違いなら、もっと宣伝できたのになぁ。
いま伊藤四朗が出てきたところだ、この硬軟の名演技!!

ミンボーの女 [DVD]

ミンボーの女 [DVD]


昨日付のエントリでは時系列で問題点(自由と権利)を分けたね。これが錯綜し、積み重なると思想的には面白い。
だが、この部分(昨日で言えば下から二番目)だけを切り取って処理すればなんのことはない、この「ミンボー」レベルの淡々としたしろものだ。

そして、「でっかい音はうるさい」というレベルで、スピーカーつきの街宣車を社会から排除してしまえば、問題の多くは片付いてしまうだろうという自信を持っている。


副作用ももちろん出てくるから、どれだけの賛同があるかは分からないが、まあ1ブロガーとしては具体的な案を出したことでよしとしよう。

この前紹介した川原泉の代表作「笑う大天使(ミカエル)」映画版がテレビ放映(深夜2時55分から)

シネ・ラ・バンバ 「笑う大天使(ミカエル)」 My番組表に登録する


川原泉の人気少女漫画を、上野樹里伊勢谷友介らを迎えて実写映画化。超お嬢様学園に転校した庶民派女子高生の奮闘を描いた痛快学園コメディ。 2005年/ジェネオン

4月3日(木) 26:55〜28:35
テレビ東京

ただしこの映画化の評判は悪い。どういうふうに悪いのかはわからんが

統一協会の文章がおもろいので記録(有田芳生ブログより)


文X明ももう80いくつか。
「聖☆おじいさん」と呼ばれている(いないいない)

http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2008/04/post_175e.html

統一教会の特別イベント情報

 神様と真の父母様の愛がいつも共にありますことを祈願いたします。
天宙清平修練苑では全ての世界が天のもとに一つの御旨に皆が心を合わせ、自然を愛し平和を思慕し共に和合する山水苑活動の趣旨に沿ってVIP復帰,平和大使,壮年壮婦復興の為の特別イベントを今年も下記の様に実施する事になりました。
 TPが特別に訪問し祝福して下さった韓国の東海岸に位置する束草(ソクチョ)のパインリッジ・カントリークラブにおいて開催されます。
 この期間に清平特別修練会に参加され先祖解怨式と祝福式の恩恵を受ける事が出来る様になりました。
 今回の特別イベントを通して韓日間の国際的な交流および地域的・宗教的な障壁等を越えて和合と心情交流が美しく深い秋の空の様に成される事を祈願いたします。多くの愛とご協力をお願い致します


この文章の味わい、まさにツボ

追悼・石井桃子氏101歳で逝く

 2日、101歳で亡くなった石井桃子さんは、生涯現役で、子どものための本について考え続けた児童文学者だった。葬儀は故人の遺志で行われず、後日、お別れの会が東京都中野区の東京子ども図書館で開かれる予定だ。
   ◇

 1月末の朝日賞の贈呈式には車いすで出席、「朝日賞をいただいた人間ですといってこの世を去るよりも、六つ七つの星に美しく頭の上を飾られて次の世の中に行きたいと思っています」と石井桃子さんらしいスピーチをして会場をわかせた。

 昨春、100歳になった石井さんにインタビューしたとき、脳の発達と子どもの本とのつながりについてさらに深めたいと話していたが、「あの続き、もう考えられなくなったの」。贈呈式の控えの間で休みながら、いかにも残念そうだった。最後の最後まで現役の児童文学者だった。

 クマのプーさんピーターラビットうさこちゃん……翻訳、執筆した主な作品だけで200を超える。この半世紀以上、日本の子どもたちは「石井桃子さん」が手がけた本を楽しんできた。海外のすぐれた物語や絵本を紹介することで、日本の児童文学は幅を広げ、豊かになった。

 石井さんの文章には、きれのいい響きと快いリズムがあった。わかりやすく美しく、いさぎよくユーモアが漂う。

 人柄も生き方も、まったく同じだった。26歳でA・A・ミルンの「クマのプーさん」に出合ったときから、子どもの本とは何か、ひたすら考え続けてきた。先輩作家の坪田譲治らとの論争も辞さず、50年前、自分の家を開放して「かつら文庫」を始めたように、実行力もあった。


私は「ノンちゃん」も「ピーターラビット」もしらんし、実はこうやって追悼の時を書くほどに影響を受けた「くまのプーさん」も「ドリトル先生」も、正式な訳は思春期のころに読んだ。うさこ=ミッフィーに至っては「この絵で●億円か」考えるような汚れた大人になってからだ(笑)
だがだからこそ、さまざまな面白みや工夫がダイレクトに分かったのかもしれない。


くまのプーさん」を自身で訳したことはいうまでもないが、「ドリトル先生」も原書を読んでああ訳すべきだと企画を親交、井伏鱒二を訳者として起用したが井伏は作家らしく仕事に手をつけない。そしたら石井は下訳をすっかり済ませ、それを井伏に突きつけて否応なく翻訳作業に取り掛からせた・・・・と聞いている。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0055.html

ところで、本書は井伏鱒二が訳している。
 それどころか、ドリトル・シリーズの大半が井伏鱒二訳になっている。なぜ、そうなったのか、その背景にすこしだけふれておく。
 そこには一人の女性の乾坤一擲があった。『ノンちゃん雲にのる』の石井桃子の乾坤一擲だ。
 昭和15年のこと、石井桃子文芸春秋社をやめた退職金で白林少年館をつくり、当時の暗い世相を打ち破る少年少女むきの出版に単身でのりだした。その第1弾が本書であった。石井は翻訳(下訳)を自分でやり、そのブラッシュアップを、当時、近所に住んでいる井伏鱒二に頼んだ。
 井伏のブラッシュアップはすばらしいものだった。翻訳というより、ほとんど日本語の文章をこしらえた。たとえば、ドリトルもふつうに訳せばドゥーリトゥルで、あえて訳せば「薮博士」というところだが、それを日本の子供の発音でも親しめるドリトル先生にした。そのほか「オシツオサレツ」「アベコベ」などの動物たちの名前や冒険先の国の名前にも工夫を凝らした。
 ところが出版されたのはこれ1冊きりで、時代はどんどん戦火のほうへ巻きこまれていった。
 戦後、石井はふたたび決断をして、岩波書店ドリトル先生シリーズを出させる約束をとりつける。井伏にも翻訳をひきうけさせた。岩波もこれに応えて全12巻の刊行をひきうけた。
 ちなみに石井は、さらに独力で「かつら文庫」という貸本型の児童図書館をつくっているが、そこで最も読まれたのはドリトル先生シリーズだっという。子供たちは一冊読んだらやめられなくて、途中で放棄する子供は一人もいなかったともいう。
 そんな背景があったのである。


プーさん、ドリトル先生を選ぶガンリキだけで、日本文化史に燦然と輝く不朽の功績が刻まれているはずだ。

そして職業女性(どころか企業経営女性)のはしりとしても活躍、101歳まで生涯現役なのだったら恐れ入るしかない。
かつら文庫には阿川弘之の二人の子供(阿川尚之阿川佐和子)も入りびたりとなって、いまのようなオトナに育った(笑)。阿川は日本人の訪米・アメリカ紀行や留学記録からアメリカ文化論を読み解く本「アメリカが見つかりましたか」の中でも、石井桃子の児童文学教育を学ぶ訪米の旅を取り上げている。


石井氏はそのかつら文庫に顔を出していたというから、いつかこの世紀の巨人の顔をおがんでやろう、という希望が当方にはあったが、これでその夢はかなわなくなったようだ。
しかし彼女が子どもたちに読ませたかった本には、いつでも会える。

むかしむかし,大むかし,まだまだむかし,この前の金曜日ごろなんだがね,くまのプーさんが、森のなかでただ一人,サンダースの名のもとに、住んでいました。

ところでプーの絵柄について

これ以前書いたっけ。

そんな石井訳の「くまのプーさん」を読んだわたしにとって、ディズニー版の「プーさん」…いやちがった「プーさんの名を僭称する賊徒」(自由惑星同盟の帝国側の呼び名じゃないって)は本当に敵以外の何者でもない。
平成の世に異端審問とかそういうのが無いのが残念だ。権力があったら事前検閲をしたかったところだ。
唯一正統はシェパード版のプーさんでしかない。


ところがあにはからんや、さすが著作権ビジネスの上昇腐敗、いや常勝不敗の帝国ディズニー。なんとこっちのシェパード氏の絵の権利も予防的にがっちり契約、保持しているんだってさ。
そこまでビジネスに徹するとあっぱれである。でもさ、それならピーター・ラビットだってそうできるんだから、あの絵柄のままそのまま動く作品をつくってよ。
そうすればディズニー社も、大悪人が地獄へ落ちても一回だけいいことをしたご褒美にくもの糸を垂らしてもらえたように、ちょっとだけいいことをしたとして後世評価される。

プーの落語的味わいについて

滑稽譚が落語に似てるなんて当たり前の話だが、それにしてもほんとにそのまま落語だ。
例えばあの「ゾゾ追跡」の回。落語的に翻案しよう。

プーとコブタだから、熊さんと豚公にしておくか。でっかい木のふもとで。
「おお熊の兄貴、何やってんだこんなところで」
「なんでえ豚公か、みてわかんねえか、この怪しい足跡を追ってるんだ。なんか化け物みてえなんだが、丁度いいやお前もつきあえ」
「おお、とっつかまえて見世物にしてやらあ」


・・・
「なんかこの化け物の足跡、二匹に増えてねえか?」
「あと一匹、別の獣も合流してるな」

・・・・
「また一匹増えたぞ。別のヤツも増えてる」
「…わりい兄貴、ちょ、ちょっと急用を思い出したんでこのへんで」
「おいこらどこに行くんだ」


そこで、大樹の上から声が。木に上って絶景を見ながら休んでいたご隠居さん(原作ではクリストファー・ロビン)。

「…おめえら、二人でこの木の周りを何回もぐるぐる回ってなにやってるんだ?」


ゾゾ追跡の一席でございました。



** クマのプーさん(winnie the pooh)の事**
クラシックプー(classic pooh)のこと

http://www001.upp.so-net.ne.jp/shino-3/pooh/classicpooh01.html

星新一劇場(再放送)が本日午後3時45分、NHKから

http://tv.yahoo.co.jp/bin/search?id=3053922&area=tokyo

星新一 ショートショート  新 「不眠症」「ボッコちゃん」 「約束」


ショートショートの名手、SF作家の星新一の世界を斬新なアニメとドラマで映像化する新番組の第1回。今回は「約束」「不眠症」「ボッコちゃん」の3作品を取り上げる。


4月4日(金) 15:45〜15:55 NHK総合1・東京

ショートショートの名手、SF作家の星新一(1926〜1997年)。奇抜な発想とぐう話性、ウィットと少しの毒に満ちた作品は、時代を超えて今も新鮮な輝きを放つ。彼の世界を、新進気鋭の映像作家によるざん新なアニメと新感覚のドラマで映像化する新番組。お届けする作品は、宇宙人と少年が交わした約束を描く「約束」、不眠症に悩む男が治療を受ける「不眠症」、バーの看板娘が実はロボットだったという「ボッコちゃん」。

中山祐一朗, 廣川三憲


最初は3月31日放送という意表を突いた日程だったから見逃した人も多かろう(つうか俺)。
番組紹介で「斬新」というのは何か嫌な予感もするが(笑)、紹介紹介。