中国の歴史を題材にしたファンタジー「後宮小説」などで知られる作家の酒見賢一(さけみ・けんいち)さんが7日午前4時45分、呼吸不全のため死去した。59歳。福岡県出身。葬儀は近親者で行った。
愛知大卒。1989年第1回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した「後宮小説」でデビュー。同作はテレビアニメ化もされた。
史実を踏まえつつ、豊かな想像力を発揮した小説に定評があり、中国・戦国時代を舞台にした「墨攻」は漫画化され、日中韓合作で映画化もされた。
ほかの著作に新田次郎文学賞を受賞した「周公旦」や、「陋巷に在り」「泣き虫弱虫諸葛孔明」などがある。
酒見氏がそんな若さで亡くなったのか?と大いに驚き、衝撃を受けた…が、いい読者では全くない。
小説で通読したのは「墨攻」と「後宮小説」のみ。陋巷に在りは1巻だけ読んだ。墨攻は漫画版を愛読、所蔵している…「泣き虫弱虫諸葛孔明」は漫画版が数年前に始まって期待したが、途中で打ち切りとなった(まだ劉備が流浪の将の段階で…)
そんなあんばい。いい読者じゃ全然ないだろ?
だけど、「酒見賢一が亡くなった」の報道に、大いに感情を揺さぶられた自分がいる。
なぜだろう?と、酒見氏デビューの時の記憶を、だいぶ色あせて曖昧な状態ながら引っ張り出してみる。それと事実の違いで、逆に何かが浮かび上がると思うので、その違いを、ぜひ大いに指摘してほしい。
まず、なぜ自分が酒見賢一の訃報に大きく感情を動かしたかというと…酒見賢一氏はそのデビュー経路ゆえに、たぶん通常の作家より知名度・注目度が高かったんだと思う。
ここから検索も加えて、記憶を補強しつつ回想する。
まず、酒見賢一氏の「後宮小説」は第一回のファンタジー小説大賞を受賞した、ことはいうまでもないが、この大賞が、1回目にしてはすごく注目された、大掛かりなものだったからだ、というのが自分の記憶。
検索してウィキペを見る…
すると「ファンタジー”ノベル”大賞」だったと知る。この時点でまことに記憶がおぼろげだが…
日本ファンタジーノベル大賞(にほんファンタジーノベルたいしょう)とは、未発表の創作ファンタジー小説を対象とした公募型の文学賞。プロ・アマを問わない。1989年創設。受賞作品は新潮社から刊行される。
(略)
はー、なるほど、そういう理由と建付けだったんか。
思い出した!だから、ただのアニメ特番にしてはやたらとCMが流れてた!けっきょくその特番アニメ作品を見てない(再放送かなんかあったのかなぁ)のに「♪あの雲のように自由に 約束もしないどこかで…」というサビ部分を覚えているうぐらいに。あれは番組のCMでなく、三井不動産のCMとして流れていたんだ、といま記憶がよみがえった。
CMの動画がみつかった。
www.youtube.com
というか、「サントリーミステリー大賞=ドラマ化」という先例もあったけど、受賞・即・アニメ化という新撰組のポリシーみたいな建て付けは、いまでもそれが続いてたらスペシャル感満載でしょ?当時だってすごいことだったよ。
だから、その賞に関しては下手な文学賞より、なんか一段世間に浸透した、すごい賞に思えたんだ。
これで納得した。
で、そんなゼニカネが大きくうごく”すごい賞”なので、選ばれた作品とか、選考理由とか、その辺の報道もふつうの賞を超える規模だったんだよ。
当時だから「本の雑誌」とか、運営スポンサーの新潮系の雑誌とか、新聞記事を読んだのかなぁ。
当時はインターネットなど影も形も無い…(いやパソコン通信とかやってた人はやってたけど)まさに「雑誌・新聞の時代」だった。
そこで、選ばれた栄えある第一回の大賞「後宮小説」は「ファンタジーにしてはかなりの変化球で……イヤハヤ、曲者ぞろいの審査員が、なんとも『王道ではない』感じのファンタジーを選んだものですな」「というか、これはファンタジーの範疇に入るのかいな?」といった感じのファンタジー論争とか、とにかく奇妙な、ファンタジーの境界線に位置する非王道作品(その是非を問う)みたいな論評も、すごくたくさんメディアをにぎわせた。
もし真面目に研究する人なら、ここで新聞のデータベースとか大宅壮一文庫で本当に「酒見賢一」「後宮小説」「ファンタジーノベル大賞」などのキーワードを調査するんだろうが、当方マジメでないので、ひたすら記憶をつむぐ。
読んだのはリアルタイムじゃないはず。数年後だった。というか最初に読んだのは「墨攻」で、そっちが面白いから後宮小説も読んだんだっけ。
最初に読んだとき、「フム確かにファンタジーだな。それも中華風ファンタジーだ」とは認識した。
それは……このあとの中華風ファンタジーとか和風ファンタジーの定義とか系譜の話につながるんだが、
自分の感覚では「和風ファンタジー/中華ファンタジー」は「いかにも日本や中国っぽいけど、架空の国と言明されている」場合に、そう定義する。これが正しいか間違ってるかは知らない。
あくまで自分の感覚としてはそうだ。
だからワンピースの「ワノ国」とか鋼の錬金術師の「東の大国シン」とかは、そっちに当てはまる。一方「鬼滅の刃」やら「陰陽師」やらは日本が舞台なので、伝奇作品とは思うが和風ファンタジーとは位置づけない。そういうお気持ち表明。
で、そういう意味合いにおける「中華風ファンタジー」の…元祖というと、またすぐ例外が見つかるだろうから元祖とか言わないが、なにかこう<先駆け的な代表作>がこの作品だったことは間違いない。
芦辺拓氏も言ってる。※訃報前のツイートですよ。
自分はドラゴンボールを「中華風ファンタジー」の定義に入れてるし、そちらの影響を軸に中華風ファンタジーを語ってもいいだろう。
ただ、やはり後宮小説の仕掛けは画期的、独特で……
「舞台の”素乾”国は、実際に中国ではなく架空の存在ですよね」
「国名が2文字ですね。中華の代表王朝なら1文字なのに…そこで架空の国だと暗に語ってるんでしょうね」
みたいな素朴な話を、田中芳樹氏らがバカ丁寧に論じていたのが記憶の片隅に残ってる。いやそれぐらい「現実の中華史上にさも存在したかのようなリアリティで、架空の国の物語をつづる」こと自体が、当時はあたらしく斬新な仕掛けだった、そんな時代だった…はずだ、と、これも記憶で適当に言っておく。
ついでにいうと、実は自分、後宮小説のあらすじをほとんど覚えてない(笑)
よくそれで追悼記事?かけるな俺。
だが、あらすじに関係ない冒頭で印象に強く残ったのが、何度となく引用される
「腹上死であった、と記載されている。」という冒頭
……ではなく、そのあと
普通なら、こんな記録は残らないが、何か義務感というか名誉欲というか、不思議な欲求に駆られた宦官が資料を持ち出し、公式な記録とは別に歴史を書き残したので、このへんの事情が分かっているのである……という説明。その説明のもっともらしさが、「ああ、作者は架空の国の歴史を、いかにも本当の歴史のように描くことにガチなんだな」と読者に思わせるものだったんだよ。
いま、冒頭試し読み的な何かで探せないかな?
ホラ探せた。
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今から見ると宦官描写のあれこれを偏見とかポリティカルに云々とできるかもしれないが、ひとまずそれは置いて!!
自分で「もとにした史料」の書名をでっち上げ、その史料に基づいて書きました…と、そんなひと手間をかける。
やってくれたぜ兄ちゃん、これを待っていたんだゼ、的な感覚でしたよ。
同じことを司馬遼太郎や塩野七生にやられると困る、というかやってる説もあるが…(笑)
このへんで、とある別の追悼記事を、読み比べていただこう。
「答え合わせ」というか、読んだときに「うわー、だいぶ言いたいことがかぶっちゃったよ」と焦ったんだけど、そんなの気にしてもしょうがないので、
……「腹上死であった、と記載されている」という驚きの書き出して始まる小説は、そうした死因による皇帝の崩御から始まり、次の皇帝即位に向けて新しい官女たちが集められることになって、その中にいた銀河という田舎育ちの少女が、居並ぶ候補者を退けて新皇帝の正妃の座を射止めるといったストーリーが綴られる。
インパクトがあるのは書き出しだけで、あとはよくあるシンデレラストーリーかと思う人も多そうだが、驚くところはそこだけではなかった。『後宮小説』は舞台が中華帝国のようで、現実とはまったく違う架空のものだったのだ。「福英三十四年、現代の暦で観れば一六〇七年である」という2行目からすでに、架空の世界への導入が始まっているが、中国史に詳しくない人は、そのまま史実として読んでしまったかもしれない。
振り返ると『後宮小説』が発表された1989年当時、こうした架空の中華風帝国を舞台にした作品は他にあまり類例を見なかった。中国を題材にした作品なら、それこそ芥川龍之介の「杜子春」があり中島敦の「山月記」があり司馬遼太郎『項羽と劉邦』もあってと数え上げればきりがない。第104回直木賞で酒見の『墨攻』とともに候補作となった『天空の舟』の宮城谷昌光も、中国古代史をテーマにした作家として知られ始めていた。
そうした作家たちから、中国を題材にした小説は年配者が書くものといったイメージが浮かんで、同じような立ち位置にいた酒見も老大家と思われていたのかもしれない。59歳という享年に意外と思った人が多かった理由もそこにありそうだが、逆に言うならまだ20代の若さだったからこそ、そして応募した賞が歴史小説や時代小説を募るものではない、日本ファンタジー大賞だったからこそ、まったく架空の中華風帝国を、その歴史や風俗も含めて作り上げられたのかもしれない。
結果、『後宮小説』は想像力の深さを買われて受賞を果たし、J・R・R・トールキンの『指輪物語』やミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が浮かびがちなファンタジーへの認識を書き換え、日本ファンタジーノベル大賞を幻想もあればホラーもあり、思弁もあって実験もあるような独特の賞にしてしまった。
(略)
『後宮小説』が架空の中華風帝国を舞台にした作品だったことが、後に同じように中華風の文化や風俗を持った世界に浸らせながらも、歴史に縛られていない自由なストーリーを楽しめる作品を生むきっかけになったのか。そこは、後に続いた作家たちの中で『後宮小説』がどれくらい影響を与えているか、あるいは版元の方で中華風でもかまわないといった認識があったかにかかってくる。ただ、読者の側には『後宮小説』という準備があって…(略)
realsound.jp
そうして気づけば、いかにも中国風、だけど架空の国の架空の興亡史を描く、という作品は、おとなりの「和風ファンタジー」も含めていまや一ジャンルだ。
それと後宮小説を、どう系譜としてつなげていくかとなると、実はそのジャンルを読んだりみたりはあんまりしてない自分の手に、大いに余る(笑)
※というか、それで書くのだから我ながら大したものだ。
どうするかというと「あとは詳しい人が考察してください」と投げる(笑)。
ただ、最後にいうなら、そもそもドラクエやウィザードリーやバスタード、ロードス島などでエンジンがかかった、そっち方面のファンタジー、異世界ものが、のちに「ナーロッパ」と称されるように、どの程度中世・近世欧州の歴史に引きずられているかの考察も必要だし、その数年前には広く言えば「ヨーロッパ以外も、架空のファンタジー世界のモデルになり得るよな?」と、ペルシャ的な世界を舞台にした「アルスラーン戦記」も大いに人気を博していたし、同作の続刊も当時はきちんと出ていた…はずだ(笑)。
そういうものが煮えたぎっていた時代から、なにが生まれて、どのように受け継がれていったのか。そこに酒見賢一はどう位置付けるべきなのか・・・・…それは、この未完の尻切れトンボ文章を書いた当人が、かなり知りたい(誰かに教えてもらいたい)と思っているのです
(未完)
【雲のように風のように】主題歌 ~『雲のように風のように』 - YouTube
https://realsound.jp/book/2023/11/post-1491308_2.html で名前の挙がった、中華風ファンタジーのあれこれ
そして最後に「墨攻」
墨攻は分量的には「中編」ぐらいでやや食い足りないかもだが、古代の攻城戦という限定された舞台で、本当に読ませる。
これもジャンルとしては「攻城戦もの・籠城もの」というジャンルにむしろくくって考えるべきで、その中で日本代表のメンバーに選抜できる(舞台は中国だけど)
togetter.com
そしてこれは,当時のガキだった自分が、本格的に中国思想を読んでいないというだけなんだが…でも、高校の世界史とかではほとんどが墨家に対しては「平和を唱えた思想」「ひとりを殺せば殺人者だが、戦争で大量の人を殺せば英雄だ、というチャップリンの後年の思想の先取り」ぐらいしか書いておらず、「実は墨家教団は、その思想を貫徹するために、攻められた国を守る側で参戦する凄腕の傭兵団、ボランティア団だった」は、一般には知られていなかった(作品でもそういう書き方をしている。)
のちに、「東周英雄伝」で描かれたっけ。
こちらは、自分の定義では「中華風ファンタジー」ではなく中国伝奇小説、中国歴史小説(漫画)だが……
何にせよ読んでほしいもの。まだ小説版も普通に本屋に並んでいるのかなあ。
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